6.入試問題研究
次の文章を読んで、あとの問いに答えなさい。
詩や小説の言葉を、いちいちの言葉に戻してしまえば、日常・実用の言葉と変わらない。
とくに文語的な語法・単語が、文学のなかにだけ――それも詩・短歌・俳句のように、現代の表現でありながら、文語的な表現もあわせ許容する形式のなかで――生きていることはある。この種の表現は、文脈から切り離して抜き書きするようにしてあっても、日常・実用の言葉とはちがうもの、と感じられる。そうしたズレのある言葉を、広告やディスク・ジョッキーのおしゃべりのなかに、わざわざ日常・実用の言葉と混ぜてもちいて、パロディのような効果をあげることも見られる。こうした文章の書き手・語り手は、言葉がそれ自体で持っている、文語的な言葉の、古めかしい感じを逆用しているのである。
いかにも現代的な言語感覚の詩人大岡信が、芭蕉の俳句や散文を――その偽書すらをまた――意識的にパロディ化した詩を書いた。そのしめくくりの短章。
君は知るやれた作者の偽作ひとつ
書くほどになつて初めて知る
惚れるツてことの
断腸の思ひ
こいつはほかでは
ちよいと味はふこともできない
真実の ホラ
忍ぶ恋さ。 (『ぬばたまの夜、天の掃除器せまつてくる』岩波書店版)
(1)旧かなづかいで書かれているが、全体にいかにも口語的な文体の作品。そこに文語的ないいまわしや、日常的にはあまり使われない漢語、国産の古い成句がおりまぜられている。
原理的にはこれと同じことを、深夜放送の若い漫才師が行なって、(ア)ヘイバン・単調なものとなりがちな語り言葉の文体に、多様な色彩感をかもしだしている。趣味の善し悪しは、別の問題として。(2)そもそもの言葉のレヴェルからカラフルな多様性を引き出して、文体を生きいきさせるという文学的なたくらみは、いまも日々の生活の風俗的な表層で活用されているのである。
幼児が、はじめはいいまちがえをしてしまったのを、意識的に(イ)クリカエして面白がることはしばしば見られる。かれらもいちばん初年級の言葉の生徒として、しかしあきらかに文学的な――つまり、日常・実用の言葉とは別のレヴェルの、言葉のゲームという――楽しみを感じとっているのである。検閲官のように(ウ)ゲンカクな態度で、――いや、それはまちがった用法だよ!
と押さえつけるほど(3)貧しい対応はない。幼児も、正しい言葉の用法というものがあると知っているからこそ――その方向への基本的な感覚があるからこそ――、わざわざいいまちがえの技法を楽しんでいるのである。
文学表現の言葉も、それを言葉の基本的なレヴェルに戻せば、例外的なものをのぞいて、それぞれみな日常・実用の言葉となる。ひとつひとつの言葉として、文語・漢語・雅語というようなはっきりしたしるしをつけている言葉は、文学においてであれ、実際の生活の場においてであれ、いまやパロディ的にしか使えない、といっていい。
三好達治の次の詩に、文語・漢語・雅語のしるしつきの言葉を読み、しかもそれがさきの大岡信の詩のようにパロディではないことを僕らは理解することができる。それは三好達治という詩人と僕らとの間に、この場合の書き方は、(4)荘重な真面目さのスタイルだと、あらかじめ了解がついているからだ。
もし、三好達治という戦前・戦中・戦後にまたがり大きい仕事をした詩人の書き方つまり文体について、こちらに予備的な知識がなければ、さらに実際の作品から、ある生真面目さのトーンを感じとるカンがなければ、これがパロディ的な語調なのかそうでないのか、よくわからないだろう。(エ)ヤッカイなことに三好達治は、パロディ的な書き方・文体もしばしば採用した詩人である。
されどなれは旅人
旅人よ
樹かげにいこへ
こはこれなれ(a)が国ならず
旅人よ
なべてのことをよそに見て
つめたき石にもいこへかし
まことになれがなほかなたに遠し
はるかなるその村ざとにかへりつくまでは
旅人よ
つつしみて言葉すくなく
信なきものの手なとりそ
ただかりそめのまこともて彼ら(b)が肩に手なおきそ
さみしき彼らがを見るにも慣れてあれ
されどなれは旅人
旅人よ
樹かげにいりて
つめたき石にもいこへかし (『なれは旅人』筑摩書房版)
日常・実用の言葉が――それもあらかじめ文学のために準備されたしるしはついていない言葉が――、文学表現の言葉として作品のなかで力を発揮する。日常・実用の言葉の日頃のあり方のまま社会生活で用いられる場合とはことなった、豊かで生きいきした役割をはたす。働きぶりがあまりに印象的で、その言葉は当の文学作品の一節として僕らの胸うちにきざまれ、もうそこから切り離せないということまでが起る。そうしたことがどのようにして、可能なのだろうか?
それはまず言葉のレヴェルで「異化」してゆくことにおいて、さらには文節・文章・ある文章のかたまりという仕方で次つぎに「異化」してゆくことによってである。自分で文章を書きながら、そこでひとつひとつの言葉が「異化」されているかどうか、確かめることは難しい。言葉を書きつけながら――あるいはいったん書いた文章を読みかえし、書きなおしして、鉄を熱して叩くように(オ)レンセイしてゆきながら――、その言葉が、また文章が「異化」されているかどうかを見て行く。「異化」されていない、と感じられれば、書きなおす。
その能力をやしなうためには、すでにあるれた文学作品を読んで、それがいかに「異化」された言葉、「異化」された文章によってなりたっているかを見る訓練の必要がある。「異化」された言葉は、ものの手ごたえをそなえている。もともと僕らには、そのような言葉からものの手ごたえを感じとる能力がそなわっている。
なぜなら僕らはまずものと関係しつつ、この世界で生きているのだから。言葉とのつきあいは、まずそのようなものとの関係の、代行である。それは、言葉について意識的になるなら、すぐにもわかるはずのことだ。(5)ところがその実生活でのものとの関係には、自動化作用が起る。ものをものとして意識し、受けとめるということがなくなる。それに対して、「異化」された言葉が、あらためて僕らにものをものとして、はっきりとらえなおさせるのである。
子供の頃、映画を見てのかえり、自分(c)がジョン・ウェインの身ぶりを無意識になぞっていることに気づきはしなかっただろうか? それと同じく、青年時に電車のなかで中勘助の短い小説を読んでいて、眼をあげると、すぐ前に膝をつきあわせるようにして立っている少女が、日頃自分の眼が見るのとはちがった新鮮さで見えているのに気がついたことはないだろうか? 自分の胸のうちに、やはり日頃とはちがった仕方で、眼に入る周囲の事物を言葉にする動きが起っている。
それは中勘助の文章の「異化」する力が、つまりはかれのものを見る、ものを考える文体が、自分を影響づけているからである。電車のなかで一冊の文庫本を熱中して読んでいた若者が一瞬窓から外の風景を見て、魂をうばわれたように放心している。僕はそうした様子を見るの(d)が好きだ。かれは、または彼女は、いま風景を見ているにはちがいない(e)が、それまでの読書によって洗われた眼・感受性、活気づけられ勢いをあたえられた心の動きで、風景を見ているのである。それまで読んでいた本の「異化」する力・文体が、窓の外の風景にまで、かれの体のうちからみ出ているのである。
いかに言葉を「異化」し、その「異化」を文節・文章・あるかたまりの文章にまで拡大してゆくか? それを学ぶためには、秀れた文章を多く読むほかにない。しかもその秀れた文章ということは、かならずしも、紙に書かれ、印刷された文章にかぎらないのである。
(大江健三郎『新しい文学のために』による)
一 傍線部(1)について、詩の中から、次の問いに答えなさい。
(一)
「いかにも口語的な文体」を形成している語句を四箇所あげなさい。
(二)
ア「文語的ないいまわし」、
イ「日常的にはあまり使われない漢語」、
ウ「国産の古い成句」に相当する語句をそれぞれ一箇所ずつあげなさい。
二 傍線部(2)の「文体を生きいきさせるという文学的なたくらみ」と同じ趣旨を述べていると考えられる語句を次の文から選び、符号で答えなさい。
(ア) 文語的な言葉の、古めかしい感じを逆用すること。
(イ)
日常・実用の言葉とは別のレベルの、言葉のゲーム。
(ウ) 幼児の、はじめのいいまちがえ。
(エ)
日頃とはちがった仕方で眼に入る周囲の事物を言葉にする動き。
三 傍線部(3)について、なぜ「貧しい対応」なのか説明しなさい。
四 傍線部(4)の「荘重な真面目さのスタイル」とはどのようなことをいっているのか、説明しなさい。
五 文章中の、三好達治の詩について、次の問いに答えなさい。
(一) 「手なとりそ」の意味を答えなさい。
(二)
「つめたき石にもいこへかし」に込められている心情を「にも」という表現に注意して説明しなさい。
六 傍線部(5)で、「ところがその実生活でのものとの関係には、自動化作用が起る。ものをものとして意識し、受けとめるということがなくなる。」とはどういうことか。わかりやすく説明しなさい。
七 傍線部(a)から(e)までの「が」は、それぞれどのような働きをしていますか。次の中から適当なものを選び、符号で答えなさい。
(ア) 動作の主体を表す。 (イ)
連体修飾の関係を表す。 (ウ)
対象を表す。
(エ) 逆接の確定条件を表す。
八 文章中の(ア)から(オ)までのカタカナを漢字に直しなさい。
九 筆者が述べている「異化」について、自分の体験を例にして、四〇〇字以内で説明しなさい。
※大江健三郎「新しい文学のために」〈5「異化」から戦略化・文体化へ〉の一節。一部、省略と改変がある。