3.音読と問題文の解説
大江健三郎『新しい文学のために』
| 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
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| ところがそれを歌として読む際、僕らの心に「この味がいいね」という言葉はとどまる。この言葉は、横すべりするようにして僕らの意識の表面を通過してゆくかわりに、数秒間にしても、タテに沈みこむように、意識のなかへ入って来る。若い恋人たちがいる。ふたりの間でこのような言葉が発せられれば、それが忘れられなくてこの日を「サラダ記念日」と呼びたくなる。それはそうだろうと、この歌をつうじて「この味がいいね」という言葉は特別なものになる。 |
| 僕が小説を書き進めながら――また、それを書きなおしながら――、自分の仕事を点検する手がかりとするのは、まずひとつひとつの言葉のレヴェルを見ることである。この言葉は妥当か? より具体的で、さらに鋭い効果をあげる言葉はないか? 僕はそのように自分に問う。俳句や短歌の作り手が、限られた語数と、きまったリズムのなかで、言葉のいれかえ・みがきなおしに力をそそぐ。その仕方は、散文の書き手によっても学ばれねばならない。ひとつの言葉といっても、名詞や形容詞にとどまらない。助動詞、助詞のレヴェルにまでそれはゆくはずのものだ。 |
| さきの俵万智の歌についていっても、ザックバランに日常・実用の言葉を発するように詠まれているこの歌で、「この味がいいね」か「この味はいいね」か、ひとつの格助詞の使いわけについてすらいかに工夫がはらわれているかを、散文の書き手は思ってみなければならない。さらには、わが国のまことに長い歌の歴史において、女性が男性のことを呼ぶ代名詞としての君という言葉が、ここでいかに新しく、それも自然に使われているかを考えてみなければならない。これもまた、決して自然発生的な成果ではないはずだから。 |
| 小説を書きなおす作業は、自分のなかに批評家を――もうひとりの自分を、または身ぢかな他人を、といってもいいが――設定して、かれに眼の前の作品をたえまなく否定してもらいながら、あらためて自力でそれにこたえてゆくことである。それは漠然と考えてみるかぎり、いかにも憂鬱な仕事とうつるだろう。しかしさきに書いたものを、ひとつひとつの言葉のレヴェルで、またひとかたまりの文章のレヴェルで、さらには人物のレヴェル、主題のレヴェル、全体のレヴェルではどうかといちいち区分して検証してゆくことは、自分を励まして仕事にむかわせる効果的な手がかりとなる。 |
語注
*ザックバラン…思ったことをあけすけにさらけだすさま。