以下の内容はネット授業第3章の一部です
◎使用した写真は第一学習社版「総合日本史図表」によります。
演習問題の難易度は以下の通りです
★ 頻出度の高い一問一答 (難易度は易です)
★★ センターレベルの問題(難易度は標準です)
★★★ 論文問題
(難易度は難です)
![]()
![]()
1)他氏琲訴
藤原氏の中央進出=藤原北家の台頭・・・・・・手段=他氏琲訴・外戚
嵯峨天皇 冬嗣(蔵人頭)=令外の官
810年―薬子の変・・・・・藤原薬子・仲成(藤原式家の没落)
仁明天皇 842年―承和の変・・・・橘逸勢(cf、804年遣唐使(16回)・三筆)・伴健岑失脚
清和天皇 良房(摂政)857年・・・・・藤原良房太政大臣就任(人臣で最初の太政大臣)
858年・・・・・清和天皇即位(9歳)(良房摂政の任、人臣で最初)
866年・・・・・藤原良房正式に摂政となる
866年―応天門の変(cf、応天門の変題材「伴大納言絵巻」(院政期))・・・・・伴善男・紀豊城失脚
光孝天皇 基経(関白)884年・・・・・光孝天皇即位 藤原基経関白の任(関白の最初)
宇多天皇 887年・・・・・宇多天皇即位(藤原基経、正式の関白となる)
888年―阿衡の紛議(藤原佐世→基経に密告)・・・・・橘広相左遷(のちに許される)
醍醐天皇 時平(左大臣)901年―昌泰の変・・・・・菅原道真左遷<太宰府>(cf、「北野天神縁起絵巻」鎌倉期)
冷泉天皇 実頼(関白) 969年―安和の変(源満仲密告)=源氏と摂関家の結びつき・・・・源高明失脚(醍醐天皇皇子)
以後摂関常設→全盛期(11世紀初、道長・頼道)
平安時代の主な令外の官
勘解由使・・・・・延暦年間(桓武天皇)国司交替の引継文書(解由状)の監査
蔵人頭・・・・・弘仁1(810)年(嵯峨天皇)詔勅・宣旨・機密事務にあずかる
検非違使・・・・・弘仁年間(嵯峨天皇)盗賊の逮捕・風俗取り締まり・非法の糾弾
延喜・天暦の治
天皇親政―延喜・天暦の治(10世紀前半)
特徴 天皇親政の終末(後世の天皇政治の理想→後醍醐天皇)
律令政治再建の努力(律令政治の終焉)
天皇と律令貴族・中央政治の指導性の強化
地方豪族の台頭→武士団の成長
醍醐天皇の政治=延喜の治
901(延喜1)年・・・・・「日本三代実録」(六国史の最後)編纂―藤原時平・菅原道真(cf、「菅家文草)
902(延喜2)年・・・・・延喜の荘園整理令(最初の荘園整理令)→新立荘園停止、勅旨田の禁止
cf、1045(寛徳2)年―後冷泉天皇
1069(延久1)年―後三条天皇
905(延喜5)年・・・・・「古今和歌集」(八代集の最初)撰集(紀貫之)―最初の勅撰和歌集
907(延喜7)年・・・・・延喜格編纂→三代格(弘仁格・貞観格・延喜格)
延喜通宝鋳造(11番目)―皇朝十二銭(和同開珎〜乾元大宝)
914(延喜14)年・・・・・三善清行意見封事十二箇条→国家財政の窮乏、農村の疲弊の実情指摘(備中国<岡山県>下道郡邇磨郡の例
927(延長5)年・・・・・延喜式完成(905年醍醐天皇の命により編纂着手)
村上天皇の政治=天暦の治
951年(天暦5)年・・・・・「後撰和歌集」撰進(清原元輔・紀文時ら)
958(天徳2)年・・・・・乾元大宝鋳造(皇朝十二銭の最後)→以後日宋貿易の宋銭
2)摂関とは
承和の変から安和の変まで120年間→藤原北家が摂政・関白独占
摂政(天皇の幼少時)・関白は臨時の職→安和の変→常置の職
藤原氏の権勢
@左大臣源高明→追放 A左右大臣・内大臣の独占(1世紀の間) B天皇の外戚
摂関政治の全盛
969年(安和2)年・・・・・安和の変(他氏排訴最後の事件・以後摂関常置)―源高明(為平親王擁立の陰謀)橘繁延・藤原千晴
失脚
藤原氏の全盛・・・・・11世紀=藤原道長・頼通父子
11世紀=一族の内紛(ex、兼通対兼家や道長対伊周)
藤原道長(御堂関白)→(注:道長は関白になっていない)・・・・・法成寺建立(阿弥陀如来像=定朝作、滅亡)
仏教に帰依する道長(石山寺縁起絵巻) |
藤原道長(紫式部日記絵巻) |
<道長の略歴>
1016(長和5)年・・・・・後一条天皇即位(道長=摂政)
1017年(寛仁1)年・・・・・太政大臣
1018年(寛仁2)年・・・・・威子入内―「望月の歌」→「此の世をば我が世とぞ思う望月のかけたる事も無しと思へば」「小右記」(藤原実資日記)
道長の日記=「御堂関白日記」
道長・・・・・3天皇の外祖父(後一条・後朱雀・後冷泉)
兼家の子道隆・・・定子(一条皇后)←清少納言「枕草子」
兼家の子道長・・・彰子(=上東門院・一条中宮)←紫式部「源氏物語」
妍子
威子(1018{寛仁2}年後一条天皇に入内)―望月の歌「小右記」
嬉子(後朱雀天皇に入内)
藤原頼通(宇治関白)=摂関在位最長(1017〜1067)50年間・・・・平等院鳳凰堂建立(1053年)→阿弥陀如来像(定朝)―寄木造
平等院鳳凰堂 |
平等院鳳凰堂夕景 |
|
平等院鳳凰堂阿弥陀如来像 |
日野法界寺阿弥陀堂
|
3)摂関政治の特色
@天皇の政務代行・・・・・天皇幼少=摂政、天皇成人=関白
摂関の地位条件=天皇の外戚(母方優位)→cf、院政=(父方優位)
A太政官=公卿会議→天皇・摂関の承認→官府・宣旨
B摂関政治=政治の形式化→先例重視→日記類の重視
平安時代の日記は儀式等を詳細に記し、子孫に伝えるために書かれたものである。
ex、藤原道長「御堂関白記」、藤原実資「小右記」、藤原宗忠「中右記」、藤原行成「権記」、藤原師輔「九暦」、藤原頼長「台記」
C経済的に困窮した貴族→成功・重任の流行=地方政治の乱れ
↓
cf、後三条天皇禁止→白河上皇復活
D1019(寛徳3)年=刀伊の入寇(女真族→壱岐・対馬来襲)←太宰権帥藤原隆家撃退
征討軍を派遣できなかった中央政府は、藤原隆家の軍と高麗の協力によって危機をのがれた。
平安京遷都と貴族社会・・・平安京への遷都は、大和政権の変換期であった。律令国家の再編がその課題だったが、結果として律令制は崩壊の道をたどることになる。
唐の長安をモデルに造られた平安京 794年、桓武天皇は、琵琶湖に近い平安の都に遷都しました。これ以前、律令制はすでにゆるみが生じていて、政治を刷新する必要がありました。社会も混乱していて、不安な人心を一新するするためにも遷都は必要だったのです。勿論、平安京は現在の京都であり、8世紀末から江戸末期の19世紀末まで、天子の都でありつづけたところです。平安京は平城京と同じく、唐の長安をモデルとして作れれた町でした。この地で桓武天皇は律令体制の再建をはじめます。また蝦夷討伐の将軍坂上田村麻呂は、このころ派遣された実在の人物です。青森に残るねぶた祭りは、この討伐行が起源といわれます。
摂関政治はこうして始まった!
嵯峨天皇の代になって、藤原仲成・薬子兄妹が平城天皇をもう一度天皇にしようとして失敗する政変が起きると、蔵人と検非違使という、律令制に無い役職が設置されます。律令の制度外にある役職のことで、「令外の官」と呼ばれているのですが、この令外官の設置は、この後どんどん増えていき、律令制は形から崩れていきました。200年ほど経た10世紀半ばになると、律令制はなし崩しとなり、数々の事件や政変を経て、摂政・関白が天皇の祖父として後見し、実質的な政治を行う摂関政治に移ります。勿論、摂政や関白になれるのは、藤原一族の本流ともいえる北家の人間だけであり、この時期が藤原氏の全盛期でした。
藤原一族の権力集中術とは?・・・中臣鎌足は天智天皇を支え、天皇を頂点とする国家作りに尽くした。皮肉なことに、その子不比等は天皇をお飾りにし、自らが実権を握ったのである。藤原氏は、奈良時代から平安時代を通して、常に政治のトップに立ち続けた一族です。特に平安時代には、藤原氏は天皇に娘を嫁がせて男子をもうけさせ、その子を次の天皇にすることで、常に実質的な権力者として君臨していました。藤原氏隆盛の基礎を作ったのは、大化の改新で中大兄皇子の片腕となった中臣鎌足でした。中臣家はもともと神事を司る一族で、仏教導入を推進した蘇我家と対立しました。いずれにしても、鎌足はクーデターによって世に登場し、中大兄皇子を補佐して政治を行いました。彼は中大兄皇子に先立って亡くなりますが、臨終の際自分の葬儀は簡略にしてほしいといったと「日本書紀」には書かれています。すでに即位していた中大兄皇子は、鎌足に当時の冠位で最高の「大織冠」と「藤原」という姓を与えました。以後、彼の子孫は藤原氏を名乗るのです。なお、大阪府高槻市にある阿武山古墳は、鎌足の墓とされています。その鎌足の子が不比等です。大宝律令、養老律令は、不比等が中心となって作られたといわれているように、彼も父に劣らない大政治家でした。娘宮子を文武天皇の妻にあげ、さらに、宮子の子の聖武天皇の妻にした光明子を強引に皇后にします。光明子も不比等の娘ですが、これまで皇后には皇族
しかなれませんでした。天皇、皇后をおさえた不比等は、藤原四卿と呼ばれる四人の息子とともについに権力を掌握しました。天武天皇の孫にあたる長屋王は同時代の最高権力者で皇族勢力の代表者でしたが、不比等は光明子を皇后にさせるために彼を追い落とし、一族ともども死に追いやったことは有名です。娘を権力者の妻にすることは古来豪族がやってきたことですが、藤原氏は娘を天皇の妻とし、その子を天皇につけて権力を握る、いわゆる外戚として権力をつかむレールをひいたのです。藤原氏はもはや天皇の片腕ではなく、天皇をあやつって政治を握る一族になります。かって、蘇我氏が皇族と政権を争った時は蘇我氏が負けましたが、藤原氏対皇族の政権争いは、藤原氏の勝利に終わりました。
藤原一族の栄華・・・「光源氏の」モデルになった道長の栄華・・・藤原氏は平安時代の半ば「源氏物語」の主人公「光源氏」のモデルになったといわれる道長の時代に、全盛期を迎えます。道長は後に摂政・関白となる藤原兼家の4男として生まれました。普通ならばとても権力の座につけるとは思えない境遇なのですが、歴史は道長を権力の座へと導きます。道長は光源氏と同じように、女性にとても人気がありました。それも、年上の高貴な有力な家柄の女姓に特に人気があったのです。このことは、後に権力の座につく道長にとってとても重要な要素となります。というのは、長男の道隆が関白になったあと、2男、3男が次々に病死するという事情が影響したこともありますが、実姉の詮子(せんし)=円融帝の妻、を初め、有力な女性のバックアップなくしては出世は出来なかったのです。こうして道長は権力を握ると、宴の席で次のような歌を詠みました。「この世をば、我が世とぞ思ふ望月の、欠けたることもなしと思えば」藤原氏の絶対の栄華と、道長の揺るぎのなき自信を表現した歌だとは思いませんか? 平安時代はワイロに馬を贈った?・・・道長の栄華を象徴するように、この頃贈収賄が頻繁に行われるようになりました。当時はワイロとして馬を贈るのが慣例だったようで、道長に対して鎮守府将軍(陸奥)維良(これよし)は、馬20頭のほか、砂金、絹、綿布などを贈ったという記録が残っています。いつの時代も権力の構図は変わらないようです。
藤原氏はどのように権力を独占していったか?・・・「藤原北家」にまつわるきな臭い話・・・藤原鎌足にはじまる藤原氏は、その子不比等の子供の代に飛躍的に発展します。具体的にみると、武智麻呂(むちまろ)が南家、房前(ふささき)が北家、宇合(うまかい)が式家、麻呂が京家といわれるが、この「藤原四子」によって、藤原氏全盛の基礎がつくられたのです。また不比等の娘宮子が文武天皇の夫人となって聖武天皇を生み、もう一人の娘光明子が今度は聖武天皇の皇后となって、孝謙天皇を生んでいます。つまり、天皇を後見する資格として、天皇の外戚(母方の親戚)であることが重要視されたのです。この藤原氏のやり方は、これ以後も有力氏の常套手段となりました。例えば、藤原道長は、彰子(しょうし)・妍子(けんし)・威子(いし)・嬉子(きし)・盛子の五人の娘をつぎつぎに天皇の后妃として送り込み、後一条・後朱雀・後冷泉と三代にわたる天皇を外孫として権勢を振るったのです。さて、「藤原四子」が興した南家・北家・式家・京家を「藤原四家」といいますが、この四家のなかでは北家が中心となって行きます。北家は、房前(ふささき)ー真楯(またて)ー内麻呂ー冬嗣とつづき、その冬嗣の子良房の代から全盛期を迎えることになります。良房は、清和天皇が幼少で即位したとき、その外祖父という立場で、天安二年(858)、臣下としてはじめての摂政となりました。さらに良房の養子基経は、元慶(がんぎょう)八年(884)、光孝天皇即位のときはじめて関白になっている。摂政・関白を出す家柄ということで、藤原北家は「摂関家」とよばれるようになります。しかし、こうした権力独占の過程でさまざまな政治的事件がもちあがってきます。薬子の変・承和の変・応天門の変・安和の変などあげていけばきりがないくらいです。そのすべてが、藤原北家によって仕掛けられた他氏排訴の陰謀事件というわけではありませんが、応天門の変における大納言伴善男の失脚は、中臣氏と肩を並べていたかっての名族、大伴氏の没落を意味しました。ちなみに大伴氏が伴氏に変わったのは、淳和天皇の時で、淳和天皇の名が大伴だったことから、それをはばかって伴に姓を変えていたのです。
道長が突然出家した理由?・・・藤原道長が「御堂関白」の名でよばれていたことはよく知られている。道長の日記は「御堂関白記」として残っている。このため、道長は関白になったと思っている人が多い。たしかに、此の世をば我が世とぞ思う望月の かけたることも無しと思へば といった歌からも連想されるように、娘を天皇の妃とし、彼女たちが生んだ子の外戚として権勢をふるったことからも考えても、道長は関白になっていてもおかしくない。しかし、実際には、内覧の宣旨を得たのみで、関白になっていないのだ。もっとも、道長の力が弱かったということではない。関白にこそならなかったが、人々は道長のことを関白と同等の権力者とみていたのである。それをあらわしているのが「御堂関白」という呼び名であった。では「御堂」とは何なのだろうか。道長は権力の絶頂にあった寛仁三年(1019)、突然出家し、土御門殿の東に一つの堂を建て、そこに九体の阿弥陀と観音・勢至(せいし)像を安置し、念誦に明け暮れる生活に入った。その堂が御堂と呼ばれたのである。道長は権力者であったが、あまり健康体では無かった。病気には、それぞれそれなりの原因があったが、当時の人々は、「道長によって追い落とされた政争の犠牲者たちが祟っているのだ」とうわさしあった。それともう一つ、当時人々の間に阿弥陀仏にたいする信仰が流行しはじめていた点も忘れることは出来ない。源信(942〜1017)が「往生要集」を著し、末法思想が流行しはじめたのもこのころである。道長は浄土に憧れ、怨霊から逃れて極楽浄土に往生することを願って出家し、念仏三昧の生活にはいったのである。道長は法成寺(ほうじょうじ)を建て、子頼道は平等院鳳凰堂を建てているが、頼道も道長同様同じ思いを抱いていたのではないだろうか。
★ 頻出度の定期テスト用としてや高い入試問題
1)810年の薬子の変の直前に蔵人頭に任命され、藤原北家繁栄の基礎をつくったのは誰か。
![]()
2)天皇よりより先に公卿会議の奏上を一覧し、天皇を補佐する任務をもつ令外官は誰か。
![]()
3)この任務を持った令外官は、天皇が幼少・女性のときには何と云われるか。
![]()
4)858年、臣下ではじめて事実上の摂政となったのは誰か。
![]()
5)この時、幼少だったのは誰か。
![]()
★★ センター問題
問1 藤原兼家・道長が生きた10〜11世紀のことがらとして適当でないものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 皇朝十二銭の最後の貨幣である乾元大宝が鋳造された。
A 貴族の間に流行していた今様などを集めた『梁塵秘抄』が編纂された。
B 三蹟の一人である小野道風が活躍した。
C 貴族社会の生活や感情をつづった『枕草子』が著された。
![]()
9世紀には,(a)北家の藤原冬嗣の系統が,他氏族を排斥しつつ,天皇家と姻戚関係を結んで勢力を拡大した。良房は天皇の外祖父として皇族以外ではじめて摂政となり,ついで基経には関白の詔が下された。その後一時((b)菅原道真が登用されたが,道真を失脚させて藤原氏の権勢は強まった。10世紀後半以後,摂政・関白はほぼ常置され,藤原北家は摂関家として政権を独占した。その後道長は,娘たちを次々と皇后や皇太子妃とし,天皇の外祖父として子の頼通とともに(c)摂関政治の全盛期をもたらした。しかし,摂関家の権勢も長くは続かず,11世紀後期には院政へと移行していった。ただし,藤原氏はその後も長く公家を代表する位置を占め続けた。
問2 下線部(a)に関連する9〜10世紀の事件に関して述べた次の文ア〜エについて,古いものから年代順に正しく配列したものを,下の@〜Cのうちから一つ選べ。
ア 宇多天皇即位の際の勅書が撤回させられ,関白の政治的地位が高まった。
イ 伴健岑・橘逸勢らが謀反をはかったとされ,流罪になった。
ウ 醍醐天皇皇子の左大臣源高明が,密告によって大宰府に左遷された。
エ 平安宮応天門の炎上は大納言伴善男の陰謀とされ,善男らが配流された。
@ イ―ア―エ―ウ A エ一イ―ウ―ア
B ア―ウ―エ―イ C イ―エ―ア―ウ
![]()
問3 下線部(b)の人物の建議で遣唐使が停止された後,10世紀の国際関係に関して述べた文として誤っているものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 唐が滅んだのに続いて,それまで国交のあった渤海や新羅も滅んで別の王朝が興った。
A 僧侶たちは中国に渡って寺院などを巡礼し,様々な文物を持ち帰った。
B 中国の商船はしばしば九州に来航し,多くの文物をもたらした。
C 国交がとだえたことから貴族たちの中国文化への関心は減り,男性貴族も平仮名で日記を書くことが一般化した。
![]()
問4 下線部(c)の時代に成立した文化遺産の組合せとして正しいものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。
@ 古今和歌集ー室生寺金堂ー扇面古写経ー往生要集
A 栄華物語ー
等院鳳凰堂ー離洛帖ー 往生要集
C 栄華物語ー富貴寺大堂ー扇面古写経ー性霊集
D 枕草子ー富貴寺大堂ー離洛帖ー教行信証
(解答)(3)・(1)室生寺金堂は平安初期。古今和歌集は国風文化。扇面古写経は平安末期。(2)栄華物語は11世紀頃。藤原道長の賛美に終わり、批判精神に乏しい。鳥獣戯画は平安末期。教行信証は鎌倉前期。(4)富貴寺大堂は平安末期に建立。
★★★ 論文問題
1,摂関政治の確立過程と摂関政治の特質について説明せよ。
<解答>
摂関政治が成立するための不可欠条件は、天皇との外戚関係のあった。そのため藤原氏はその娘を次々と入内させ、誕生した皇子が天皇になるとその外戚として権勢を振るい、他氏を排訴して一族の者が公卿の地位を独占することによって摂関政治は確立した。その結果、多くの荘園が摂関家に寄進され、また諸国の受領たちは再び受領に任命されることを期待して、官職の任命権を握っている摂関家に積極的に奉仕したのである。
2,桓武天皇は、律令政治のたてなおしのため、どのような政策をとったか。下記の語句群より五つの語句を選び、それらの語句を使用して150字以内で記せ。
<解答>
桓武天皇は政治一新のため、山城国長岡京に遷都したのち、さらに794年平安京に遷都し、律令政治再建に努めた。地方政治再建のため、国司の不正を取り締まる勘解由使をおき、実効のない徴兵制を廃し、健児制を実施し農民負担の軽減をはかった。蝦夷の反乱に対し、坂上田村麻呂に命じ遠征を行い、鎮守府を胆沢城に移した。
はじめにもどる
![]()
音声を聞く
荘園制
1)荘園の発生
8〜9世紀=初期荘園
723年(養老7)・・・・三世一身法(長屋王施行)
743年(天平15)年・・・・墾田永年私財法(橘諸兄政権下)荘園の発生
765年(天平神護1)年・・・・・加墾禁止令=貴族の開墾禁止(道鏡政権下)
772年(宝亀3)年・・・・・道鏡政権の墾田の禁廃止→荘園の増加
荘園の経営・・・荘(開墾のための施設)の設置
開墾の労働力=班田農民・浮浪人
班田制の後退原因=地方行政の衰退・農民の窮乏→偽籍ex、阿波国田上郷戸籍(902年)
班田の不励行→最後の班田実施(902年)
課戸の減少・・・・ex、、三善清行の意見封事十二箇条(914年)→醍醐天皇
政府の対応→土地公有主義の崩壊
@勅旨田(902年{延喜2}年の醍醐天皇の最初の荘園整理令で禁止)・官田経営(9世紀)
A太宰府・・・・公営田経営←小野岑守建議(cf、「凌雲集」(814年)最初の勅撰漢詩集)
課税対象の変化・・・・・人身賦課方式⇒土地賦課方式(人から→土地へ課税対象移る)
2)不輸・不入権
荘園=輸租田→不輸租への変化
不輸租の手続=立券荘号→不輸租の許可・・・・・官省符荘(太政官符・民部省符)・国免荘
不入権=検田使の立入拒否、国司の司法・警察権の不介入
荘園・・・・・不輸・不入の権の獲得→経済的独立体となる→本所法の成立
荘園絵図(越後国奥山荘)
3)国司と徴税
有力農民の台頭、戸籍・計帳の崩壊→新徴税方式=官物・雑役
口分田の私有化・有力農民の田地集積
田地の耕作請負人=田堵(大規模な請負をするものを特に大名田堵という)
租税徴収の対象耕地=名・名田(名・名田の持ち主を名主という)
国司の役割=徴税請負人
※荘園整理令
※902(延喜2)―醍醐天皇―最初の荘園整理令、勅旨開田禁止惟
※1045(寛徳2)―後冷泉天皇―新立荘園停止令
※1069(延久1)―後三条天皇―寛徳2年以後の新立荘園禁止、記録荘園券契所
4)地方政治の乱れ
国司の腐敗
売位・売官=成功・重任→cf、後三条天皇禁止→白河上皇復活
遙任国司(任地に赴任しない)→目代(国司の代官)派遣
国衙(本当の責任者はいない=留守)=留守所、実務=在庁官人
受領(現地赴任の国司の最高責任者)→信濃守・・・・・藤原陳忠「今昔物語」―「受領ハ倒ル所ニ土ヲモツカメ」
受領の悪政の例・・・・・988年尾張国郡司百姓等解文=(尾張国司藤原元命)
|
任国に赴く受領(因幡堂縁起) |
武士の登場(粉河寺縁起絵巻) |
武士の発生
1)承平・天慶の乱
平将門の乱(将門の本拠=下総国猿島地方)→「将門記」(院政期)
935年・・・・・平氏一族の内乱(935〜937年)
平将門(対)平国香
939年・・・・・藤原玄明(はるあき)<対>常陸国司(常陸の国司と対立していた藤原玄明(はるあき)を将門が援助)
将門―常陸・下野・上野の国府攻略→将門「新皇」と称す
940年・・・・・藤原忠文(征夷大将軍として派遣)
平将門←平貞盛(国香の子)と藤原秀郷(下野押領使)により殺害され、藤原忠文到着前に解決
藤原純友(前伊予掾)の乱
936年・・・・・紀淑人派遣、一時平穏となる
939年・・・・・藤原純友―淡路→讃岐の国衙→太宰府侵入(940年)
941年・・・・・朝廷は小野好古(追捕使)・源経基を派遣し乱鎮圧
2)武士のおこり
地方の争乱・・・・・国衙の役人・荘官の武装化→小武士団
↓
治安維持・所領の拡大・土地、人民の保護
小武士団の長―家子(同族)―郎党(従者)―下人・所従(隷属民)

家の子・郎党(平治物語絵巻)
武士の中央進出
朝廷→国検非違使・押領使・追捕使に任命・・・・・地方の争乱の鎮圧
ex、嵯峨天皇―検非違使(弘仁年間)
ex、嵯峨天皇―六衛府→cf、五衛府=衛門府・左右衛士府・左右兵衛府
六衛府=811年左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府
宇多天皇―滝口の武士(宮廷の警護)→cf、<白河上皇(1095年)―北面の武士><後鳥羽上皇―西面の武士→承久の乱(1221年)>
大貴族のもとに家人としても入る(下級武士)
源氏の活躍
1)平忠常の乱
(1028〜1031年<上総>
平忠常(押領使・上総介・下総権介)
平忠常→安房国司を攻略
朝廷―平直方派遣(微力)⇒源頼信(甲斐守)追討使→平忠常降伏・・・・・東国の平氏勢力衰退
東国の勢力・・・・・平氏⇒源氏へ
2)前九年の役
(1051〜1062年)→cf、前九年の題材=「陸奥話記」(院政期の文化)
安倍頼時(陸奥の俘囚)→陸奥国司襲撃
朝廷=源頼義(陸奥守鎮守府将軍)・義家<対>安倍頼時
↑ ↓
清原武則(出羽の俘囚)援助 貞任・宗任(子)・・・・・1062年鎮圧
|
前九年の役 |
後三年合戦絵巻 |
3)後三年の役
(1083〜1087)→cf、後三年の役題材=「後三年合戦絵詞」(絵物語)
東北の勢力・・・・・安倍氏⇒清原氏(清原氏一族の内訌=後三年の役)
清原氏の内訌←源義家(陸奥守)派遣し、一時鎮静化
↓
清原家衡<対>藤原清衡・・・・・所領問題で対立 (奥州藤原三代=清衡・基衡・秀衡)
↑
源義家
4)奥州藤原氏
藤原清衡(後三年の役・中尊寺)―基衡(毛越寺)―秀衡(無量光院)―泰衡(源義経←奥州征討 1189年)
5)僧兵
僧兵の発生―平安中期
<僧兵>
南都=興福寺僧兵(奈良法師)・・・・・春日神社の神木を奉じて強訴
北嶺=比叡山延暦寺僧兵(山法師)・・・・・日吉神社の神輿を担いで強訴
園城寺僧兵(寺法師)
白河法皇の三不如意・・・・「鴨川の水、双六の賽、山法師@、これぞ朕Aの如意Bならざるもの」(「源平盛衰記」)
@比叡山延暦寺の僧兵 A白河法皇 B意のまま
武士はどうして生まれたか・・・平安時代、貴族の目の届かない地方では土地に根付いた勢力が生まれていた。武器を持ったこれらの武士は、貴族を脅かす存在となる。
武士もかっては貴族だった。・・・平安時代は貴族文化の全盛期でしたが、すべての貴族がこの世を謳歌していたわけではありません。むしろ、宮廷の重要な役職は大貴族に独占されていたため、出世の見込みのない下級貴族は、都を捨て地方の国司などに任官し、そのままその地に住み着く者もいました。これらの土着貴族や、土地の有力者などは自らが開墾した土地、すなわち政府の手の届かない荘園を守るために、兵力をやしなうようになります。こた。武器をを持ったこれらの武士は、貴族を脅かす存在となる。が、やがて武士団となり、地方毎にまとまって有力な豪族を棟梁と仰いで団結するようになりました。これが武士のはじまりです。武士といえども、もともとは中央では目のでなかった貴族だったわけですね。これらの武士の中には、都に出てきて、宮中や院御所の警備にあたる者もいました。貴族からみれば、武士はごく低い身分の人間であり、貴人のそばにつかえる、すなわちさぶらうことから「さぶらい(侍)」と呼んで軽んじたのです。しかし、武士達は力をたくわえ、11世紀には大規模な武士団を形成します。最初はあらくれの熊男のように思われていた武士たちも、このころになると和歌などの教養を身につけていました。主人と従者との封建的なつながりも次第に確立していき、武士は武士の倫理を作っていきます。10世紀前半に平将門が関東で反乱をおこし天皇を名乗るという事件があったときも、貴族や朝廷にはなんの力もなく、あざけっていた武士の力を借りるしかなかったように、次第に貴族は武士の力に圧倒されていくようになったのです。
★ 頻出度の高い問題の一問一答
1)10世紀ごろから貴族による政治の公私混同状況を反映して流行した、朝廷の儀式費用や寺社・宮殿造営費用を納めるかわりに官位・官職をえる方法を何というか。
![]()
2)この方法により、おもに国司に再任されることを何というか。
![]()
3)10世紀以降、国司に任命されながら、実際に赴任せず俸禄のみを受け取る者もあらわれる。こうした国司を何というか。
![]()
4)彼らの任国内で国務をとった役所を何というか。
![]()
5)彼らの代官として派遣された者を何というか。
![]()
はじめにもどる
![]()
1)概要
<特色> 文化の国風化(遣唐使の廃止{894年}→唐文化の影響を脱す)
↓
理由(唐の凋落=安史の乱、航海の危険・実現(宇多天皇より菅原道真の建議許可)
仮名文字の発達、情緒的的な貴族文化、浄土教の発達、神仏習合の流行
東アジアの情勢
中国 875年 黄巣の乱・・・・・唐の衰退
907年 唐の滅亡(618〜907年)→五代十国
960年 宋の建国(五代十国おわる)
朝鮮 918年 王建が高麗王となる
935年 新羅(676年朝鮮半島統一)が王建に降伏し滅亡
936年 高麗、朝鮮半島統一
東北アジア
926 契丹が渤海を滅ぼす
10世紀前半契丹が国号を遼とする
2)かな文字の発明
平安初期―仮名文字の発明⇔漢字(真名)
平仮名―漢字の草体=草仮名
片仮名―漢字の偏や画を省略
仮名文字の発明→日本人独特の思考・感情や言葉が自由に表現できる
漢字の日本化→和漢混交文・侯文など
10世紀アジア諸民族の独自の文字(中国周辺の諸民族)
契丹文字・・・・・契丹の遼
女真文字・・・・・女真族の金
西夏文字・・・・・中国の西北方の西夏
3)和歌
六歌仙・・・・・在原業平・僧正遍昭・喜撰法師・大友黒主・文屋康秀・小野小町
勅撰和歌集の撰集「古今和歌集」〜「新古今和歌集」=八代集
<三代集>
古今和歌集(905年)・・・・・紀貫之・紀友則ら(醍醐天皇)
後撰和歌集(951年)・・・・・清原元輔・紀時文ら(村上天皇)
拾遺和歌集(998年?)・・・・・藤原公任(?)(一条天皇)
後拾遺和歌集(1086年)・・・・・藤原通俊ら(白河天皇)
金葉和歌集(1127年?)・・・・・源俊頼ら(崇徳天皇)
詞花和歌集(1151年?)・・・・藤原顕輔ら(近衛天皇)
千載和歌集(1187年)・・・・・藤原俊成ら(後鳥羽上皇)
新古今和歌集(1205年)・・・・・後鳥羽上皇・藤原定家・藤原家隆ら(土御門天皇)
4)物語文学
「竹取物語」、「伊勢物語」―在原業平(六歌仙)の恋愛談、
「宇津保物語」「落窪物語」、「源氏物語」(紫式部)
5)日記文学と作者
「土佐日記」(紀貫之)、「蜻蛉日記」(藤原道綱の母)、「和泉式部日記」(和泉式部)、「紫式部日記」(紫式部)、「更級日記」(菅原孝標の女)
随筆―「枕草子」(清少納言)
6)国風の美術
建築―寝殿造り(寝殿=正殿、東西の対屋、渡殿、対屋から南に廊がのび中門や部屋を連ね、その先端に釣殿をおく。)
大和絵―巨勢金岡
|
聖衆来迎図 |
蒔絵―三十帖冊子筥
書道―三蹟(和様の唐風)→藤原佐理・・・「離洛帖」
小野道風・・・「屏風土代」「秋萩帖」
藤原行成・・・「白氏詩巻」
小野道風 |
藤原佐理 |
藤原行成 |
7)貴族の生活
衣服・・・・・奈良時代(唐風)→平安時代(日本化)
<貴族>
男子―正装・・・・・衣冠・束帯 平服・・・・直衣・狩衣
女子―正装・・・・・女房正束(十二単衣) 平服・・・・袿・袴
<一般庶民>
上層者・・・・水干
下層者・・・・直垂
食事・・・・1日2回→cf、1日3回(桃山期)
陰陽道
具注暦・・・・・暦にその日の出来事を書き込むようになり、これら日記が発生
![]()
★宿命のライバルー紫式部VS清少納言・・・平安期には,たくさんの女流作家・歌人が活躍しました。その中でも紫式部と清少納言は、この時代のみならず、日本史を代表する女流作家といえるでしょう。紫式部は道長の娘・中宮彰子に仕え、清少納言は道隆(道長の兄)の娘・中宮定子に仕えていました。道隆・道長兄弟は出世争いの上でライバル関係にあり、また、彰子と定子は、同じ一条帝に嫁いでいたことから、紫式部と清少納言もまた、ライバル関係にあったのです。こうした環境の中でなにかと比較される両者ですが、2人はともに、当時は男性の学問とされていた漢文ができることで、注目されていました。行動派で天才肌の清少納言は,サロンの中でも人気者でしたが、紫式部はどちらかというと、目立たない性格で秀才肌の女性でした。「自分から私は漢文ができるのよなんていうのは、愚の骨頂よ・・」と考えていたのですね。紫式部は「紫式部日記」の中で、清少納言をこう評しています。「清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち真名(まな)書きちらしてはべるほども、よく見ればまだいとたらぬこと多かり」=(清少納言はわけしり顔で偉そうに振舞っている。漢文なんかも書き散らしてるようだけれど、はっきりいってまだまだね)・・・激しい女性同志の火花が感じられる文章です。
中宮彰子と紫式部(紫式部日記絵巻)
(2)歴史に関する逸話
「源氏物語」の文化・・・出世闘争に明け暮れた平安貴族は、文化の担い手でもあった。大陸文化を吸収した前時代と変わり、日本独自の国風文化が花開くのである。・・・★日本文化の礎は平安にあり
「国風」がその国独自の風俗や習慣を指すように、この時代は、日本独自の文化が発展しました。第一に、平仮名・片仮名というかな文字の発明があります。これによって、和歌や国文学が発展しました。この時代の代表的な文学には、「土佐日記」(紀貫之)。「枕草子」(清少納言)などのエッセイや、「源氏物語」(紫式部)、「伊勢物語」(作者不詳)などの物語があります。特に物語は漢詩文のように難しくなく、読みやすいことからあっというまに広まりました。宮廷に仕える女性には教養が必要とされたことから、女性作家が多くでたのもこの時代の特徴です。和歌も発達し六歌仙(在原業平、小野小町,文屋康秀、大伴黒主、僧正遍昭、喜撰法師)のような歌人もでています。また、社会不安が増して盗賊などが横行すると、民衆は宗教にすがるようになり、陰陽道や浄土教が広く浸透していきます。現世に期待せず、あの世(浄土)で幸せに、というわけです。工芸品や寺も、浄土教の影響をうけたものが多く残っています。特に寺には阿弥陀堂が多く、平等院の鳳凰堂、三千院、法界示などが現存しています。
★★ センター問題 大宰府の飛駅使(注1),馬に乗りて左衛門の陣(注2)に馳(か)け入る。是(こ)れ<A>国の賊徒,五十余艘起こり来たり,壱岐島を虜(かす)め,壱岐守藤原理忠(まさただ)を殺害し,ならびに人民をし,慮掠(りょりゃく)し筑前国恰土(いと)郡に来たるといえり。
十八日,(c)摂政以下,飛駅のことを定め申す。
(注1) 緊急を要する事件の際に発せられる使い。駅で人馬をかえて走る。
(注2) 宮中を警衛する左衛門府の詰め所。
(『日本紀略』寛仁3年〔1019年〕4月17・18日条)
問1 史料Bの空欄<A>に入れる語として正しいものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。
@ 遼 A 高 麗 B 元 C 宋 D 刀 伊
![]()
問2 この事件の当時,下線部(c)の摂政の任にあったのは,約50年にわたって摂政・関白をつとめた人物である。その人名として正しいものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。
@ 藤原道長 A 藤原道綱 B 藤原頼通
C 藤原忠通 D 藤原頼長
![]()
問3 大宰府や周辺地域について述べた文として,誤っているものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 大宰府が置かれる以前から,この地方は大陸と交渉があった。志賀島で発見された金印は,魏との通交を裏付ける資料として貴重である。
A 都から遠く離れた大宰府に,左遷されて赴任した上級貴族は少なくない。菅原道真も藤原氏に退けられ,この地で生を終えた。
B 白村江の戦に敗北した日本は,唐・新羅の侵略を恐れて,水城を築き,また山に城を築いて防衛体制を固めた。
C 遣唐使が停止され,また新羅や渤海がほろびても,大宰府は外国との貿易の窓口となり,依然として重要な役割を果たした。
![]()
10世紀後半から11世紀前半にかけて,摂関家は全盛期をむかえた。栄華をきわめた藤原道長は,当時流行した浄土の教えを信じ,晩年には阿弥陀堂を中心とする(ア)を造営した。道長はその死にのぞんで,阿弥陀堂に安置された阿弥陀如来の手と自分の手を糸で結び,西向きに臥していたと伝えられている。
問4 空欄(ア)に入る寺院名をA群から,藤原道長の説明として適当なものをB群から選び,その組合せとして正しいものを,下の@〜Gのうちから一つ選べ。
A群
T 平等院鳳凰堂 U 法勝寺
V 法成寺 W 室生寺
B群
a 安和の変により,左大臣源高明を失脚させた。
b 約50年間にわたって摂政・関白の地位を独占した。
c 娘をつぎつぎに皇妃や皇太子妃とし,3代の天皇の外祖父となった。
d 伴・紀氏などを排斥し,皇族以外ではじめて摂政となった。
@ T―a A T―b B U―b C U―c
D V―c E V―d F W―d G W―a
<解答>
(5)・A群のT、平等院鳳凰堂は1052年関白藤原頼通が宇治川畔にある別荘を寺として創建。翌年造立供養された阿弥陀堂は、後世鳳凰堂と美称され、平安時代の遺構で、堂内には定朝作の阿弥陀如来像を安置する。U、法勝寺は白河天皇建立の寺。六勝寺に一つ。V、法成寺は京都鴨川の西辺、荒神口の北にあった寺。1022年藤原道長の創建。藤原時代を代表する大寺で、その伽藍は壮観をきわめたが、数次の火災で廃絶。通称、御堂。W、室生寺は平安初期の密教寺。女人禁制の高野山にたいし、女人高野と称した。B群のa、安和の変で源高明を失脚させたのは、藤原実頼。b、藤原頼通についての記述である。d、皇族以外ではじめて摂政になったのは藤原良房。
問5 国風文化について述べた文として誤っているものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ 貴族社会では女性の手により多くの仮名の日記が著されたが,『和泉式部日記』もその一つであった。
A 貴族は陰陽道を重んじたため,その日常生活には方違や物忌などの慣習がひろまった。
B 往生を遂げたと信じられた人々の伝記をもとに,往生伝編纂がされるようになった。
C 寝殿造が発達し,建物内部の屏風や襖には当時流行した濃絵が描かれるようになった。
![]()
★ 頻出度の高い定期テスト問題や入試問題の用語
1)遣唐大使に任命されたが、その廃止を建議したのは誰か。
![]()
2)この建議により、遣唐使が廃止されたのは西暦何年のことか。
![]()
3)この人物が、遣唐使廃止を建議した理由を3つあげよ。
![]()
4)遣唐使が廃止された理由の一つに、唐物が容易に入手できるようになったことがある。どこの商人とどんな貿易によって入手したか。
![]()
5)この貿易管理を主要任務とするようになった官庁は何か。
![]()
はじめにもどる
![]()
音声を聞く
1)平氏の進出
白河上皇 鳥羽上皇 後白河天皇
<平氏の略系図> ‖ ‖ ‖
平国香―貞盛―維衡=(伊勢守=伊勢平氏)―○―○―正盛―――忠盛――――清盛
‖ ‖ ‖
源義親鎮圧(1108年) 海賊平定 保元・平治の乱――重盛(1179年死去)
北面の武士 日宋貿易 日宋貿易全盛
2)寄進地系荘園の発達と荘園整理
初期荘園(8〜9世紀)→寄進地系荘園(10〜11世紀)
<寄進地系荘園>
(10〜11世紀)・・・・・中・下級貴族→上級貴族へ寄進(摂関時代)
(11世紀後半〜)・・・・・在地領主(開発領主)→最高権力者へ寄進
↓ ‖
ex、肥後国鹿子木荘 (院政期)
<肥後国鹿子木荘>
寿妙―○―――中原高方
‖ ↓寄進(1086年)年貢400石・・・・・・・・・・・・・・預所(荘官)
開発領主 藤原実政―○―○―藤原隆通(願西)・・・・・・・・・・・
領家
寄進(1140年ごろ) ↓年貢200石
高陽院内親王(鳥羽皇女)・・・・・・・・
本家
<荘園構造>
本所・本家(上級貴族・大寺社)←領家(中級貴族・寺社)←預所=下司・公文・荘司・地頭など←荘民
↓ ‖
都に居住 荘園の管理者
荘民から徴税(年貢・公事・夫役)
3)後三条天皇と荘園整理
1068年(治暦4年)・・・・・後三条天皇即位
1069年(延久1)年2月・・・・・延久の荘園整理令
↓
1045(寛徳2)年以後の新立荘園停止
それ以前の荘園―*立契(証拠)不明なもの停止
*国務に妨げのあるもの停止
閏10月・・・・・記録荘園券契所(=記録所)設置(cf後後醍醐天皇再興)
↓ 職員=寄人・・源経長(貴族出身)・大江匡房(受領出身)
史料「愚管抄」(慈円)―摂関家の整理に触れていないが、摂関家も整理
<結果> 摂関家を含む荘園の整理・・・・・ex、石清水八幡宮領(34カ所中13カ所停止)
受領層の支持→天皇権威の回復
↓
受領の公領回復
桝の容量統一(宣司桝・1072年)
国司の成功・重任の禁止→cf、白河上皇復活(院政)
4)院政の始まり
院政の成立(1086=白河天皇)
白河上皇(1086年〜1129年)―堀河・鳥羽・崇徳3天皇
鳥羽上皇(1129年〜1156年)―崇徳・近衛・後白河3天皇
後白河上皇(1158年〜1179年)―二条・六条・高倉3天皇
後白河上皇(1181〜1192年)―安徳・後鳥羽2天皇
5)院政の成立
@院政と上皇
天皇→太上天皇=(上皇)・・・・天皇の尊属親
‖
院政=父方優位→cf、摂関政治=母方優位
↓
実質的院政―後鳥羽上皇(鎌倉時代)・・・・・承久の乱(1221年)
形式的院政―光格天皇(1840年まで=江戸時代)
A院政成立の諸事情
藤原摂関家の勢力衰退―頼道・教通の娘に皇子が得られなかった。
婚姻形態の変化―招婿婚⇒嫁取婚(外祖父の発言権衰退→父方尊属の発言権の強化、摂関政治=母方優位⇒院政=父方優位)
B院の近臣
院の近臣―上皇の側近(富裕受領、后妃・乳母の一族など)
C院庁と国政機関
<院庁>
白河・鳥羽上皇の院政期・・・・・・・上皇の私的機関
後白河・後鳥羽上皇の院政期・・・・国政機関
院庁の職員=院司(別当・執事・年預・判官代・主典代など)
院庁の発給文書=院庁下文・院宣
D院の武力
白河天皇―1095年北面の武士設置(院の北面で警衛にあたる武士)
↓
cf、滝口の武士(宇多天皇)・・・・・朝廷警固
cf、西面の武士(後鳥羽上皇)・・・・・院警固
平正盛は北面の武士として白河天皇に重用された(平氏と院の結びつき)
1067平正盛私領を六条院へ寄進
6)院政の特色
@対荘園政策
初期=荘園整理政策の継承⇒荘園承認政策へ転換・・・・院は荘園領主
長講堂領(約180カ所)・・・・・持明院統・・・・北朝方相伝
八条女院領(約220カ所)・・・大覚寺統・・・・南朝方相伝
摂関家の荘園集積→殿下渡領
A知行国制
荘園以外の国衙領=公領→院の近臣たちの知行国として分配(院宮分国制)
B院と仏教
上皇・女院=仏教信仰→経済の破綻→売官の弊害(成功・重任の復活)
↓
仏教保護=造寺・造仏・参詣(熊野詣・高野詣)
↓
<六勝寺>
法勝寺(白河天皇)・尊勝寺(堀河天皇)
最勝寺(鳥羽天皇)・円勝寺(待賢門院)
成勝寺(崇徳天皇)・延勝寺(近衛天皇)
7,平氏の政権と平安末期の文化
1)保元・平治の乱
保元の乱関係図
<天皇方> (○) 後白河(弟) 関白忠通(兄) 清盛(甥) 義朝(子)
(天皇家) (藤原氏) (平氏) (源氏)
<上皇方> (×) 崇徳(兄) 左大臣頼長(弟) 忠正(叔父) 為義(父)
平治の乱関係図
通憲(信西)=自殺 (○)
<平氏> 清盛 重盛
(院近臣の藤原氏)
信頼=斬首 (×) <源氏> 義朝(殺害) 頼朝(伊豆へ)

平治物語絵巻
2)平氏の全盛
1167年(仁安2)年・・・・・平清盛一位太政大臣(武士で太政大臣の最初)
↓
cf、大友皇子(最初の太政大臣、671年)・藤原良房(人臣で最初、857年)
1168(仁安3)年・・・・・高倉天皇即位
1177(治承1)・・・・鹿ヶ谷事件(後白河法皇の近臣による平氏打倒計画)
↓
藤原成親・・・・備前に配流、僧俊寛・・・・鬼界ケ島に配流、藤原師光(西光)・・・斬首
1179年(治承3年)・・・・・平清盛クーデター(後白河法皇鳥羽殿に幽閉)→平氏政権の成立
平氏政権の特色
@政治的には藤原氏の政治と同様・・・・・外戚の地位利用
1171年・・・・・徳子の入内(高倉天皇の中宮)
清盛(外祖父)・・・・・・・・・・徳子(建礼門院)―――高倉天皇(1180院政)
‖
安徳天皇(1185年入水)
A鎌倉幕府の地頭制度の先駆
B平家一門の繁栄→「平家物語」
C経済基盤・・・・荘園(500余所)・知行国(30余)、日宋貿易→大輪田泊<摂津国>
音戸の瀬戸<安芸国>
|
厳島神社 |
音戸瀬戸 |
D平氏政権に対する院・貴族・寺社の対立→平氏の孤立化・短命
3)平安末期の文化
@浄土教のひろがり―12世紀阿弥陀建築が盛行
阿弥陀堂―中尊寺金色堂<岩手県平泉>、白水阿弥陀堂<福島県>
富貴寺大堂<大分県>、三仏寺投入堂<島根県>
|
富貴寺大堂 |
中尊寺金色堂 |
白水阿弥陀堂 |
A装飾経・・・・・阿弥陀浄土の信仰→法華経の信仰
↓
世俗画と宗教画を一体化→ex、扇面法華経冊子(四天王寺)・平家納経(厳島神社)
平家納経
B絵物語
「源氏物語絵巻」・・・・・吹抜屋台法・引目鉤鼻式
「伴大納言絵詞」・・・・・応天門の変(866年)を題材にしたもの
「信貴山縁起絵巻」、「鳥獣戯画」(鳥羽僧正覚猷?)
|
源氏物語絵巻 |
|
応天門炎上(伴大納言絵巻) |
|
伴大納言を召し捕りに行く検非違使の一行(伴大納言絵巻) |
|
鳥獣戯画 |
C文学
「大鏡」(世継物語)・・・・・紀伝体の仮名史書のはじめ、藤原全盛期を批判
↓
四鏡のはじめ 四鏡=「大鏡」「今鏡」「水鏡」「増鏡」
「栄華物語」・・・・・編年体の歴史書(宇多〜堀河天皇)、歴史的批判精神に乏しい
D軍記物語
「将門記」・・・・・・軍記物の最初、平将門の乱を題材
「陸奥話記」・・・・前九年の役を題材
E説話文学
「今昔物語」・・・・・・受領の信濃守藤原陳忠の話が有名
F歌謡集
「梁塵秘抄」・・・・・後白河法皇撰、今様、催馬楽を集成・分類したもの
★ 頻出度の高い問題の一問一答
1)天皇家の家長が、上皇として初めて政治の実権を握った平安後期の政治形態を何というか。
![]()
2)堀河天皇に譲位して、上皇として初めて政治の実権を握ったのは誰か。
![]()
3)この人物が政治の実権を握り、上皇として政治をはじめたのは西暦何年か。
![]()
4)この後に、つづいて上皇として政治をおこなった人物2人をあげよ。
![]()
5)院政は、一般的には、約何年間続いたとされるか。
![]()