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以下の内容はネット授業第2章の一部です

 

◎使用した写真は第一学習社版「総合日本史図表」によります。

演習問題の難易度は以下の通りです

  頻出度の高い一問一答 (難易度は易です)


★★  センターレベルの問題(難易度は標準です)

★★   論文問題 (難易度は難です)
 

 

 

第2章律令国家の形成




1推古朝と飛鳥文化

音声を聞く


  1)推古天皇の即位

587年・・・・蘇我馬子→崇峻天皇擁立(←用明天皇崩御)
592年・・・・崇峻天皇暗殺←東漢直駒が(蘇我馬子の陰謀)→推古天皇即位←聖徳太子 (甥、593年=摂政)

  2)東アジアの形成
朝鮮
562年・・・・任那の日本府(官家)滅亡→朝鮮半島における勢力後退
聖徳太子の新羅攻撃計画

602年・・・来目皇子(くめのおおじ)の派遣(太子の同母弟)・603年・・・当麻皇子(たいまのおおじ)の派遣(太子の異母弟)。(途中で中止)
中国
589年・・・・(統一国家)の成立←百済・新羅使者派遣(冊封をうける)
        ↓
煬帝
・・・・3度の高句麗征討
570年・・・高句麗の国使の船漂着=欽明天皇→敏達天皇=高句麗の上表文

 3)冠位十二階

聖徳太子の政治・・・・中央集権国家建設理想→(実現は大化の改新)
603年・・・・冠位十二階制定(門閥打破・人材登用)
徳・仁・礼・信・義・智(各々大小の二階=計十二階)・豪族の官僚編制第一歩→数次の改変→大宝令(701年)位階制へ
 4)憲法十七条4)憲法十七条
(最初の成文法・官人への道徳的訓戒)・儒教や仏教影響が強い。

 5)遣隋使の派遣

目的
・・・・対等外交・大陸の文物の吸収
600年・・・・第一回遣唐使(「隋書」のみで「日本書紀」には記載がない)隋=文帝

607年・・・・小野妹子国書持参→隋の煬帝へ 答礼使=裴世清(608年)
608年・・・・小野妹子、裴世清を送る。留学僧・留学生随行=僧旻・高向玄理(cf、改新の新人事・・645年国博士に)・南淵請安

614年・・・犬上御田鍬派遣(cf、630年第一回遣唐大使)→(618年隋→唐)


 6)飛鳥文化

特色
@古墳文化基礎 A中国南北朝文化の影響 B渡来人の活躍 C飛鳥、斑鳩中心最初の仏教文化
(1)寺院建築

聖徳太子建立・・・・法隆寺(斑鳩寺)

                      ・法起寺・法輪寺

 ・四天王寺(荒陵寺、難波)

 

             法隆寺全景

        エンタシス

 



蘇我馬子建立・・・・飛鳥寺(法興寺)→元興寺(718年平城京に移建して改称)
              
      
釈迦如来像(鞍作鳥)

秦河勝建立・
・・・広隆寺<山城>
(2)彫刻
法興寺(飛鳥寺)釈迦如来像(金銅丈六仏、607年)・・・・鞍作鳥(司馬達等の孫)
法隆寺金銅釈迦三尊像(623年造像の光背銘文あり)
・・・・鞍作鳥(北魏様式)

飛鳥寺釈迦如来像

 

法隆寺金堂釈迦三尊像

 

 

広隆寺弥勒菩薩像

 

(3)絵画
法隆寺玉虫厨子の須弥座絵・扉絵←610年曇徴(紙・墨・絵の具伝える)

(4)工芸

中宮寺天寿国繍帳(橘大郎女)


法隆寺玉虫厨子・天蓋
(5)歴史書
天皇記・国記・臣連伴造国造百八十部并公民等本記

 

★  定期テスト対応や頻出度の高い入試問題の一問一答

1)継体天皇擁立の成功により台頭したが、6世紀の初めに朝鮮政策に失敗して失脚した豪族は誰か。


2)527年、新羅と結んで九州で反乱をおこした筑紫国造は誰か。


3)2)の人物の墓と伝えられるものが福岡県八女(やめ)市にある。それは何か。


4)6世紀には朝鮮半島における日本の勢力は急速に揺らいだ。ヤマト政権が一定の勢力を有していたが、562年、新羅によって滅ぼされた朝鮮半島南端の地域はどこか。


5)6世紀末ごろ渡来人を起用してヤマト政権の財政を握り、大王家と婚姻関係により台頭した大臣は誰か。



★★ センター問題

    

問1 古代の寺院では,どのような建物を重視するかによって,時期的に伽藍配置の様式にも変化が生じる。一基の塔を中心とする伽藍配置様式として正しいものを,次の@〜Cのうちから一つ 
@ 東大寺式 A 飛鳥寺式 B 薬師寺式 C 大安寺式
<解答>
(2)・伽藍配置で着目したいのは、本来仏舎利を安置するためにつくられた塔と寺院の本尊をまつる金堂とがどのように配置されているかである。寺院建築は大陸伝来のものであるから、初期の時代は大陸・半島の様式が日本に移入された。飛鳥文化の伽藍はいわゆる四天王寺式が多い。塔を中心として、南大門・中門・塔・金堂・講堂が南北に一直線に並ぶ形式で、中国の南北朝時代に形成された様式である。創建当時の法隆寺・中宮寺・山田寺などの類例が多い。これに対し、飛鳥寺は1塔3金堂形式で、ほかに類例が無い。伽藍配置は飛鳥文化の飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式から白鳳文化の薬師寺式、天平文化の東大寺式、大安寺式と展開される。
 
北には耳成山,西には畝傍山,東には天香久山と,大和三山に囲まれた平野のなかにこの京跡がある。色濃く茂った小さな林は,大極殿の跡だという。この京の造営を押し進めた<A> は,もと天武天皇の皇后であったが,夫や息子の死という危機を乗り越え,自ら皇位について孫の即位を実現している。古代にしばしば登場する女性の天皇は,皇位継承をめぐる権力争いの激しさを伝える証人でもある。一方この京で活躍した貴族たちの,その後の運命も実にさまざまで,10世紀まで一族の威勢を維持しえた氏は,けっして多くはなかった。

問2 文章Bの空欄<A> に入れる人名として正しいものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。
@ 元明天皇 A 孝謙天皇 B 推古天皇
C 斉明天皇 D 持統天皇

<解答>
(5)・持統天皇朝の藤原京は飛鳥の北方にあり、畝傍山・耳成山・香具山の大和三山に囲まれた地にあり、東西の京極は大和の古道の下ツ道・中ツ道を利用し、南北は横大路・山田道で限られていた。                        

 

★★★  論文問題

磐井の乱について下記の各問に答えよ。
問1 乱が勃発したのはいつか。
問2 磐井の墓といわれる古墳名は何か。
問3 磐井の乱前後の日本をめぐる国際情勢についてのべよ。                      (筑波大)
<解答>
問1、527年、問2,岩戸山古墳、問3、朝鮮半島では北の高句麗に対し、南の新羅・百済が政治体制を整えて力を強め、三国鼎立の状態であった。半島の南部には加羅諸国(任那)が小国家群を形成しており、大和政権もその一部に拠点をもって朝鮮との外交に対応していた。しかし加羅諸国はしだいに新羅・百済に侵蝕され、ことに北から高句麗に領土的圧迫をうけた百済は代替地を求めて南の加羅諸国に進出、512年には大連大伴金村が加羅諸国4国の百済支配を承認する事件もあった。また加羅の回復をはかる大和政権の南朝鮮出兵を阻止しようとする新羅が、筑紫国造磐井の反乱を背後から支援したともいわれる。こうした形勢の中で、532年には最大拠点の加羅も新羅に降り、562年までに加羅は新羅・百済に併合されて大和政権の拠点は失われた。しかしこの間、五経博士や仏教など大陸文化の伝来ルートは百済を通じて保たれていた。         
 


6世紀末〜7世紀初頭の政治・外交・文化について、下記の語句を参考にして概述しなさい。
蘇我馬子・物部守屋・崇峻天皇・推古天皇・聖徳太子・摂政・冠位十二階・憲法十七条・遣隋使・小野妹子・留学生・国書・飛鳥文化・寺院・仏像・三経義疏・暦                                               (皇學館大)

<解答>
587年蘇我馬子が物部守屋を滅ぼし蘇我氏の推す崇峻天皇が即位した。このあと即位した女帝推古天皇は、539年甥の聖徳太子を摂政として天皇にかわって政務を行わせた。聖徳太子は大臣の蘇我馬子と協力して国政の改革にあたり、人材登用として冠位十二階の制や憲法十七条を制定した。また、中国に随の統一帝国が出現し、東アジアの情勢が大きく変化したのにともない、607年には小野妹子を遣隋使として派遣した。これら遣隋使には、高向玄理・南淵請安・僧旻ら多くの留学生・留学僧が中国にわたり、のちの大化改新に大きな役割を果たした。日本最初の仏教文化である飛鳥文化は、聖徳太子を中心とする文化で、法隆寺などの寺院の建立や仏像は古墳にかわる豪族の権威をあらわすものとなった。仏教の学問的な研究も始まり、法華経・維摩経・勝鬘経の三つの経典の注釈書である三経義疏が伝えられ、百済の僧観勒が暦をもたらした


推古朝(592〜628)の政治のうち「仏教興隆」について300字で論述せよ。句読点は1字分とする。(福岡教大)

<解答>

聖徳太子は、変動する大和国家体制を天皇を中心に再建するため、大和国家の政治理念にかわる新しい思想として仏教の導入をはかった。それは一面で仏教に伴うすぐれた大陸文化を移植するためであった。そのために太子は594年仏教興隆の詔を出し、604年制定の17条憲法でも仏教の信仰をすすめ、法
隆寺・四天王寺などの寺を建立し、僧の育成をはかり、本格的な国家仏教政策をはじめて実施した。ただ豪族層もふくめて当時の人々には仏教は政治的にうけいれられたことが多かった。一方太子を始め一部の豪族層が仏教を信仰として理解していたことが、太子の編になる「三経義疏」で知られる。こうした太子の政策を背景に飛鳥文化が花開いた。



歴史の一口メモ                           
                                                 
聖徳太子の外交・内政・・・聖徳太子出生の秘密太子の母・穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は臨月になっても、宮中の役所を見回っていました。そして厩舎まで来たとき、厩舎の壁にあたって産気づき、まもなく太子を出産しました。厩舎の前で生まれたことから、太子は別名、厩戸(うまやど)の皇子などと呼ばれています。また、キリストの生まれかわりではないかといった説さえ、論じられています。太子は生まれてすぐ言葉を話すことができ、生まれながらにして聖人の知恵を持っていたとされています。青年になると、一度に十人の人の話を理解することが出来、未来を予知する能力を持っていたともいわれていますが、その真偽のほどは明らかではありません。

聖徳太子が実権を握ったワケ                                                                      蘇我氏が政敵物部氏を滅ぼし対立する崇峻天皇を暗殺する事件が起きると、一時的に皇位は空白になり政治が混乱します。この混乱を鎮めるために登場したのが、日本で初めての女帝・推古天皇です。推古天皇は、自分の兄の用明天皇の子・聖徳太子を皇太子にたて、政治的な権限を与えて摂政とします。こうした状況のなかで、太子は親戚であり、朝廷の財政や外交を担っていた蘇我氏と組んで、大王中心の中央集権国家を作ろうとします。ここから政治家としての、太子の活躍が始まるのです。  
                                                                                        
孤高の人・太子の改革                                                                          十7条の憲法や、地位の世襲を廃止する冠位十二階の制定などは、古代社会では画期的なことでした。また、渡来系の蘇我一族の出身である太子は、大陸の文化を積極的に取り入れました。冠位十二階は儒教の影響を受けていますし、暦も導入しています。戦前の日本にあった紀元節(皇祖神武天皇が即位した日を紀元前660年とする)も、大陸伝来の暦によって設定されたものです。また仏教を厚く信仰し、数々の寺院を建設しています。太子は外交にも熱心でした。大陸に新興した隋と対等に国交を結び、小野妹子を始めとする遣隋使を送るなど、新文化の吸収と、朝鮮半島における日本の優位性を確保しようとしたのです。「日出づる処の天子、書日没する処の天子に致す」という書き出しで始まる国書を隋に送り、隋の皇帝・煬帝(ようだい)の怒りを買ったことは有名ですが、太子が開いた国交の道は、その後中国で王朝が代わっても続いたのです。こうした太子の政策はは画期的なものでしたが、そのために大豪族の反感を生みました。「わが一族こそ一番」と思っていた豪族にしてみれば、世襲が廃しされ、小豪族が自分と同等もしくはそれ以上の地位を得ることはがまんがならないことだったのでしょう。聖徳太子は「世間虚、唯仏是真(世は空しい、仏だけが真実である)」という言葉を、死のまぎわに言い残したといいます。太子の孤独が表れている言葉だとは思いませんか。                                                                 
飛鳥文化を形成したもの (飛鳥文化は仏教文化)                                                         いわゆる(飛鳥文化)といわれるのは、聖徳太子が摂政をつとめた推古女帝の、前後100年(6世紀後半から7世紀まで)ほどの期間を指します。大和の飛鳥地方、現在の奈良県橿原市の付近に都がおかれたために、こう呼ばれました。飛鳥時代の文化を一言で言うなら、仏教文化の時代といえるでしょう。聖徳太子は外交に熱心でしたが、大子の以前からも、朝鮮半島を経由して大陸文化は多く日本に訪れていました。仏教もそのひとつで、さなざまな文化や思想とともに日本に渡来したのです。このころ、大陸ではすでにシルクロードが存在し、ローマから中国までの長大な交流の道が開けていました。当然、日本にやってきた大陸文化は、ローマ、ギリシャ、ペルシャ、インドなどの影響を大きく受けたものでした。正倉院に残る宝物には、これらの国々の意匠のものが数多くあります。                                                      

聖徳太子が仏教をはやらせた?                                                                    また、飛鳥時代以前にさかんにつくられた古墳は、この頃になると、寺にとってかわられるようになりました。寺とは仏教、神社は日本古来の神道で、仏教が伝来した頃は仏教派・神道派の間で激烈な対立もありました。しかし聖徳太子が仏教を積極的に導入すると、一気に庶民の間にも広まりました。代表的な仏教建築には、太子の発願で作られた日本最古の寺である法隆寺、四天王寺を始め、渡来系の豪族秦氏の氏寺である広隆寺、同じく大豪族であり、仏教を日本に流布させた蘇我馬子の作った法興寺(現存せず)などがあります。                             
三経義疏(法華経・維摩経・勝鬘経)・忍冬唐草文様、龍(竜)首水瓶

 

2,律令国家の成立

音声を聞く

 1)留学生達
608年・・・・遣唐使(小野妹子、留学生・留学僧=高向玄理・南淵請安・僧旻など)→聖徳太子=文物・制度・・・・技術の吸収に意欲と期待

 2)蘇我氏の政治
622年・・・聖徳太子死去
626年・・・蘇我馬子死去→蘇我蝦夷大臣となる。
628年・・・推古天皇崩御
629年・・・田村皇子即位=舒明天皇←蘇我蝦夷(馬子の子)擁立
640年・・・留学生高向玄理・南淵請安唐より帰国→改革の気運高揚
643年・・・山背大兄皇子(太子の子)自害=上宮家滅亡
645年・・・蘇我入鹿大極殿で殺害(父蝦夷は自邸で自害)←中大兄皇子・中臣鎌足

 3)大化改新
新人事

天皇
・・・・皇極天皇→孝徳天皇
皇太子・・・・中大兄皇子
左大臣・・・・阿倍内麻呂
右大臣・・・蘇我倉山田石川麻呂(649年謀反の疑いで自害)→発願=山田寺建立(本尊→興福寺仏頭=白鳳文化)
内臣・・・・中臣鎌足
国博士・・・・高向玄理・僧旻(608年遣隋使、高向玄理640年・僧旻632年帰国)
年号・・・・大化(645年=大化1年)
遷都・・・・12月飛鳥板蓋宮→難波長柄豊碕宮
646年(大化2)年1月・・・・改新の詔
(1)私地私民→公地公民・・・・食封(大夫以上)・布帛
(2)行政区画・・・・京師(都)・畿内、国・郡・里
            郡については後に(郡評論争)→大宝令前は郡は評の字を使用。699年藤原京出土木簡で証明
(3)戸籍(6年ごと)・計帳(毎年)作製→班田収受法
   
全国的戸籍・・・・670年庚午年籍(天智)・690年庚寅年籍(持統)
(4)新税制採用・・・・従来の賦役廃止


 4)斉明天皇の停滞
(1)改新政治の動揺
645年
・・・古人大兄皇子(舒明天皇皇子)謀反の疑いで殺害←中大兄皇子
649年・・・左大臣阿倍内麻呂病死
       右大臣蘇我倉山田石川麻呂謀反のかどで自害←中大兄皇子
653年・・・中大兄皇子と孝徳天皇と不和→中大兄皇子は難波から飛鳥へ
654年・・・孝徳天皇崩御
          ↓
655年・・・皇極女帝飛鳥板蓋宮で重祚(斉明天皇)
658年・・・有間皇子(孝徳天皇皇子)を殺害

(2)内政
孝明天皇
647年
・・・・渟足柵設置
     
 648年・・・・磐舟柵設置
斉明天皇658年・・・・阿倍比羅夫蝦夷征討

(3)外征
660年
・・・・唐+新羅→百済攻撃・・・百済滅亡→日本へ救援
661年・・・・斉明天皇・中大兄皇子ら百済救援のため九州出陣、天皇崩御

 5)天智天皇の政治
661年・・・・中大兄皇子(称制)→注:662年=天智天皇1年であることに注意
663年・・・・白村江の戦い―唐・新羅の連合軍に大敗→中大兄皇子の朝鮮半島経営断念→国防強化・国内整備

(1)国防強化
664年
・・・・防人・烽火の設置<対馬・壱岐・筑紫>・水城<太宰府北方>
大野城<太宰府>―朝鮮式山城

(2)国内整備
664年
・・・・氏上・民部(かきべ)・家部(やかべ)の制定
                    ↓
部曲=646年改新の詔廃止→664年復活→675年全廃
667年・・・・近江大津宮へ遷都
668年・・・・中大兄皇子即位=天智天皇
        近江令の制定・・・・中臣鎌足(669年大織冠・内大臣を賜う、藤原賜姓)
670年・・・・庚午年籍→(690年庚寅年籍=持統天皇)
671年・・・・天智天皇崩御

 

★★  頻出度の高い入試問題の一問一答
1)聖徳太子の死後、ヤマト政権で権威をふるった蘇我氏の父子は誰か。


2)聖徳太子の子で、蘇我氏の父子に滅ぼされた、有力な皇位継承候補者は誰か。


3)645年、天皇中心の強力な中央集権国家をつくるため、蘇我氏父子を滅ぼた、改革派の人物2人あげよ。


4)改革派が行った、一連の改革を何というか。


5)この時即位した天皇は誰か。


 

歴史に関する逸話                                                      

大化の改新・蘇我氏は本当に大悪人なのか?・・・蘇我一族「わが世の春」                     
622年、推古女帝摂政のままで聖徳太子が没すると、太子と共に担ってきた蘇我氏の権力は一気に増大します。蘇我馬子は太子の後継者として、自分の娘と太子の子である山背大兄王を推薦します。しかし推古女帝は豪族が力を持つことをのぞまず、夫の敏達天皇の孫(女帝の孫ではない)、田村皇子を推しました。そのため、女帝と馬子は激しく対立したのですが、そのさなかに、馬子が急死すると、馬子の子である蝦夷は田村皇子を支持し、舒明天皇として即位させます。舒明天皇の死後はその皇后を即位させ(皇極天皇)、蘇我氏は繁栄を極めました。権力を握った蘇我氏に対する皇族や他の豪族の反感は、次第につのっていきましたが、蝦夷の子入鹿が山背大兄王とその一族を自殺に追い込むと極限に達し、ついにクーデターを招きました。その中心人物が、中大兄皇子と中臣鎌足です。このクーデターの顛末について話をしましょう。舒明天皇は、即位後まもなく宝皇女(たからのひめひこ)=後の皇極天皇、を皇后にしました。皇女はまもなく中大兄皇子をもうけました。皇子は次の天皇になることは確実でしたが、皇子の成長につれて、人々は彼を皇位につけることに不安を持ち始めたらしいのです。そのため、舒明13年(641)に天皇がなくなると、先帝の皇后の宝皇女が中継ぎの天皇として即位することになりました。これが皇極天皇です。皇極天皇のもとで、蘇我入鹿が積極的な中央集権化政策をとりはじめました。かれは、弟の軽皇子(かるのおおじ)後の孝徳天皇や中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子と結んで積極策を打ち出していきました。古人大兄皇子 の母は蘇我馬子の娘法提郎女(ほていのいらつめ)で、入鹿と皇子は従兄弟の関係にありました。蘇我入鹿は地方にしきりに国司(くにのみこともち)とよばれる使者をおくって、支配の強化を図りました。さらに朝鮮半島にあった新羅の国にたいして強硬策をとることを通じて、日本の地位を高めようとしました。蘇我入鹿のそのような政策は、聖徳太子の打ち出した政治改革の方針を受け継ぐもの でした。それゆえ、大化改新がもし起こらなかったとしても、日本はちがった道筋での中央集権化が行われていたはずです。ところでこのような動きをみて、中大兄皇子は大きな不満を感じたのです。自分が皇族のなかで最も正当な血筋をうけているのに、なんかのはずみで、自分に変わって古人大兄皇子が皇位につくおそれもあったのです。そのような皇子が、野心の固まりともいうべき中臣鎌足と結びついたのです。「日本書紀」は皇子と鎌足との出会いを次のように描いています。皇子が遊び仲間と法興寺で蹴鞠をおこなっていたとき、たまたま鞜(くつ)がぬげて飛んでいった。その時、鎌足が鞜をささげて皇子に差し出したことをきっかけに、皇子と鎌足は親しく言葉を交わすようになったと言います。中大兄皇子と鎌足は、皇位をえさに軽皇子を自派にひきこみました。そして、入鹿の従兄弟の蘇我石川麻呂をも誘いました。入鹿を除いて、お前が蘇我氏をまとめる氏長者になればよいと言ったのです。さらに、入鹿に手を下す刺客として、宮殿の門の管理にあたる武人であった佐伯子麻呂(さえきのこまろ)と稚犬養網田(わかいぬかいのあみた)を味方にしました。皇極四年(645)6月12日、朝鮮からの貢納物を天皇にささげる儀式が行われるといって、中大兄皇子らは入鹿を宮廷におびき寄せたのです。そして入鹿がやってくると、皇子は俳優(わざおぎ)=天皇に仕えて芸を見せて人々を笑わせる人、をつかって、うまく入鹿をだましてその刀をはずさせました。暗殺計画は予定どおり進んだのですが、しかし、最後の段階になって、刺客の子麻呂と網田が入鹿の威勢に怖れをなして、飛び出そうとはしなかったのです。そこでしびれを切らした中大兄皇子は、ついに思いあまって自ら入鹿の肩先を切りました。それをきっかけに、子麻呂も網田も飛び出して、入鹿の足をはらいました。身動き出来なくなった入鹿は、天皇に救いを求めましたが、天皇は黙って出ていきました。そのため入鹿は斬り殺され、その死体は庭におかれ、こもがかけられました。この時代には貴人の死体を地上に置くことは、最大の侮辱とされていたのです。中大兄皇子はただちに法興寺に入り、蘇我氏を討つ軍勢を集めました。多くの豪族はこの時点で皇子側につきました。蘇我蝦夷は兵を集めて息子の敵討ちをしようとしたのですが、蘇我氏の同族のなかの有力者の一人、高向国忍(たかむこのくにおし)がこの戦いに勝ち目はないので、私はここを去ると言いました。それをきっかけに、蝦夷のもとに来た人々は、散り散りとなり、蝦夷は、家に火をかけて自殺してしまったのです。このことをきっかけとして、きわめて大がかりな政治改革が始まったと「日本書紀」に記されています。しかし、そこの記述はきわめて後世的文章で書かれています。とくに、政治改革の方針をしめした「改新の詔」の文章は、律令の文によって装飾されています。そのため、改新批判論とよばれる説も出されてしています。それは、「日本書紀」が記すようなすすんだ政治改革は、実際は、もっと後になってから行われたものにすぎないということから、それを、天武朝のものとする説と持統朝とする説があります。             
 
中大兄皇子の真の意図は?                                                         
中大兄皇子(後の天智天皇)は、弟の大海人皇子(後の天武天皇)と同じく、舒明天皇と皇極天皇との間に生まれました。舒明も皇極も蘇我氏のバックアップによって天皇になれたのですが、中大兄皇子は豪族のひも付きではなく、実質的な権力と権威のすべてに集めることを望んだのです。その結果、入鹿は暗殺され、蝦夷は自殺に追い込まれて蘇我氏は滅び、中大兄皇子の政治改革がはじまります。その内容はまず天皇中心の政治であり、左右大臣の設置、公地公民の制などですが、これら新政策の詔(布告)はつじつまのあわないことが多く、クーデターよりずっと後になって制定されたものを、この時期に行われていたことにしているのではないかという見解が有力です。となれば、大化の改新は政治改革ではなく、天皇家をしのぐ力をもった政敵{=蘇我氏}を暗殺するテロ行為だったかもしれません。蘇我氏は渡来系の名族であり、ナンバ2として天皇家を補佐し、もりたてる側につきました。しかし、天皇が全ての権力を一身に集めたいと考えた時、ナンバー2は排除されるのが当然です。蘇我氏は長い間、天皇をないがしろにした逆賊のようにいわれてきました。しかし、このように考えると蘇我氏は単なる悪役ではなく、むしろ権力抗争に敗れた悲劇の一族といえるのではないでしょうか。          

大化改進でいったい何が変わったのか・・・・競争相手を抹殺し政権の基盤を固めた天智天皇   
大化改新で権力を手にした中大兄皇子は、自分では天皇にならず、伯父の孝徳天皇を名のみの天皇として政治改革をすすめました。以後日本は天皇を中心とした律令国家への道を歩んでいきます。中大兄皇子は孝徳天皇が自分の子・有間皇子に帝位を譲ろうとしたため、孝徳天皇を難波の都へ置き去りにして文武百官を連れて飛鳥に引き上げ、孝徳天皇の死を早めただけでなく、有間皇子を謀反の疑いで処刑して実質的な権力者として君臨します。しかしこんなことをすれば、世間の非難を受けることは確実ですから、その目先を変えるため、母の皇極天皇を斉明天皇としてもう一度即位(一度退位した天皇が即位することを重祚という)させるのです。こうしてみると、蘇我入鹿の暗殺から始まる一連の大化の改新の流れは、天智天皇が権力の座につくための、謀殺の歴史といえなくもありません。                                                                   
思ったよりも進まなかった社会の変革                                                        中大兄皇子は大化の改新以来のパートナーである中臣鎌足とともに、中央集権国家の建設を進めました。先ず初めて「大化」という元号を定め、難波長柄豊碕宮に遷都(都を移すこと)します。ついで改新の詔が発布されます。これは朝廷の中央集権を強化するためのものでしたが、中大兄皇子の改革は急進的であったため、諸豪族の反発を招き、政治体制の改革ほどには社会の変革はすすみませんでした。中大兄皇子は大化の改新から23年後、ようやく即位して天智天皇となります。                                                                   

藤原氏は何故栄え、何故滅んでいったのか? 物部氏との争いは宗教戦争?
      
藤原氏が権力を握る課程を考えるとき、忘れていけないのが、物部守屋と蘇我馬子の争いです。587年に用明天皇の皇位継承問題をめぐって両者の対決は決定的になるのですが、実質的には宗教問題が大きく関係していました。物部氏は日本古来からの神道の信奉者で、仏教に対しては消極的、というより排仏的な立場をとっていました。一方の蘇我氏は崇仏派で、ここに対立が起こったとするのです。現在では、物部氏が本当に排仏派であったかどうかは疑問視されていまが、この宗教の問題が権力争いの道具に利用されていたことは確かなようです。また、蘇我馬子の妻は物部守屋の妹ですが、この妻が守屋の膨大な財産に目をつけて、夫の馬子をそそのかし、物部氏を滅ぼさせたという話しが、「日本書紀」に載っています。案外事実はこのへんにあったかもしれませんね。                                                      

蘇我氏の衰退と藤原氏の繁栄 
蘇我氏は馬子・蝦夷・入鹿の3代にわたって、天皇の外戚として権力をふるいましたが、わずか3代で滅んでしまいました。それはなぜでしょうか?後に権力を握る藤原氏と比べてみましょう。藤原氏の祖は中臣鎌足ですが、鎌足と馬子はきわめて似た性格をもっていたといわれています。馬子は推古天皇を利用して権力を握ったのですが、鎌足も皇族の中大兄皇子に近づいて、権力の中枢に入り込んでいます。馬子も鎌足も、皇族に近づくことで権力の座を昇りつめていったのです。こういった意味では、馬子も鎌足も、それぞれの氏の基盤を築く役目は十分果たしたといえるでしょう。問題は2代目です。馬子の子・蝦夷が全くたよりない存在だったのに対して、鎌足の子・不比等は父をもしのぐ人物でした。この違いがのちの蘇我氏の滅亡、藤原氏の繁栄につながっていくのです。蘇我氏を滅ぼしたのが鎌足であることを考えれば、奇妙な運命の糸で結ばれた一族なのかもし れません。                


 

★★  センター試験問題

  古代の貴族について述べた文として正しいものを,次の@〜Eのうちから二つ選べ。ただし,解答の順序は問わない。 
@ 藤原氏は,大化改新に功績のあった中臣鎌足に,藤原朝臣の氏姓が与えられて成立し,その子藤原仲麻呂は律令編さんなどに大きな役割を果たした。
A 大伴氏は,大和政権の軍事を担当してきた氏で,奈良時代には著名な歌人もでたが,応天門の変を契機に一族は政界から没落してしまった,
B 橘氏は,皇族の出身で,奈良時代には藤原氏と拮抗(きっこう)する勢力を持っていたが,橘逸勢が薬子の変で失脚して以後,ふるわなくなった。
C 源氏は,皇族に氏姓が与えられて新しく成立した氏であるが,のちには,源義家のように武士の棟梁として活躍する者もでた。
D 藤原冬嗣は,承和の変に際して初めて設けられた蔵人頭となり,天皇の側近として信任され,皇室と姻戚関係を結んだ。
E 平将門は,桓武平氏の一族で,陸奥の清原氏とともに東国で反乱を起こしたが,鎮圧され,以後源氏が東国に勢力を持つようになった。
<解答>
問(解答)(2と4)・(1)中臣鎌足の子は藤原不比等(3)橘氏は奈良時代の後期に橘奈良麻呂の変で力を失い、橘逸勢が伴健岑とともに承和の変で失脚してからまったくふるわなくなった。(5)薬子の変の時藤原冬嗣は最初の蔵人頭(蔵人所長官)の一人に任じられ、この地位を利用して式家に代わって北家興隆の基礎を築いた。(6)平将門の乱は939(天慶2)年の10世紀。清原氏が台頭するのが11世紀。
 

 

          
★★ 論文問題
いわゆる大化改新の政治的改革は、氏姓制度の経済的社会的状況の政治的帰結として理解することができよう。氏姓制度の
「経済的社会的矛盾」と大化改新の「政治的変革」との関連を説明せよ。                        (岡山大)
<解答>
大和政権は、氏上に率いられ氏有地と氏有民を有する各氏族が大王の下に氏族として服属する氏族の連合国家であり、大王の下に氏族として服属する氏族の連合国家であり、大王はその氏族に姓をを与えてこれを統括した。6世紀以後、各氏族における氏上の地位の後退と氏族の後退に伴って、大和政権では、大王の地位の後退、大臣・大連クラスの有力氏族の進出、地方氏族の大王への反乱といった動向にみられるように、大王を中心とする氏族の連合が大きく変動していった。6世紀末から7世紀初めにかけての聖徳太子の改革の理念を受け継いだ大化改新では、中国の隋・唐の律令制度にもとずく進んだ政治体制を導入しながら、旧来の氏族の土地・人民支配を廃止して氏族を解体し、天皇を中心とする中央集権的な国家体制を確立せんとするものであった。        



次の文章を読み、文中の下線1)〜5)に関して、それに対応する下記の設問に答えよ。なお、句読点も1字に数える。   
 律令制は6〜7世紀の日本の内外の政治的社会的矛盾の打開策として成立したもので、基本的には、神権的天皇を最高にいただき、中国の王土王民の儒教的観念の上に、国家的土地所有と中央集権的な官僚制と統一的な身分秩序を基本にした体制である。中央の行政組織には太政官の下に八省があり、各省には、それぞれ若干の寮・職・司が所属した。土地制度としては全国の田地を公地、園地、宅地を私地、山川藪沢を公私共利の地とし、1)田地は班田収授によって班給した。律令制は多分に大化前代の体制をとりいれてはいるが、唐制をうつしたものも多かったため、日本の実情にそぐわない点もあり、大宝律令の2)官制は8世紀の前半にはすでに補正が行われ、その後も官制の改廃がしばしばあった。また国家的土地所有(公田主義)を貫徹するための諸規定によって田地の開発意欲が失われ、人口の増加にみあう田地の開発が行われず、口分田の不足を生じた。そのため3)律令国家がとった諸施策は、結局公田主義を破綻させ、荘園制への道をひらくことになった。さらに官人に与えられる諸特権が大きいのに反して、一般公民の負担がその生産力を無視した過重なものであったため浮浪・逃亡人が続出した。政府はこれに対して、しばしば禁令と対策を講じたけれども効果はなく、課役忌避を目的とする浮浪・逃亡を阻止することが出来ず、課丁(調・庸の民)の現象は奈良時代の末にはすでに顕著となった。平安時代の初期には、4)格式による律令制の再建が試みられたけれども、農民の零落と5)地方官人の腐敗が加わって、租・調・庸の未進や粗悪化が国家財政を破綻させるとともに、班田収授も長い間隔をおいてかろうじて実施されるありさまであった。                                                                                                  

問1、班田収授法はどのような目的で行われたと考えられるか、50字以内で答えよ。
<解答>
班田制によって農民の最低生活を保障して生活基盤を確立させ、その上で課税対象者を確保するためである。
問2、官制ではどのような補正が行われたか、30字以内で説明せよ。
<解答>
新たに中納言や参議などの令外の官が設置された。
問3、諸政策について80字以内で説明せよ。
<解答>
良田百万町歩の開墾計画を建てたが実現しえず、翌養老7年には三世一身法によって農民の自主的開墾を期待したが
成功せず、墾田私財法によって墾田の私有を認めた。

問4,格とはなにか。その編纂課程を含めて50字以内で説明せよ。
<解答>
格とは律令の補正・修正法のことであり、9世紀には弘仁格・貞観格、10世紀には延喜格が編纂された。
問5、地方官人の腐敗を取り締まるために、桓武朝が行った政策について50字以内で説明せよ。
<解答>
新たに令外の官である勘解由使が設置され、国司の交替に際して出される解由状を調査監督させた。


大化改新の基本方針4か条をあげ、それを氏姓制度および聖徳太子の政治と比較してその特徴を説明せよ。(小樽商大)
<解答>
第一に公地公民制、第二に中央地方の行政組織の確立、第三に班田収受法、第四に租庸調制という四制度の実施が、その基本方針である。そのねらいは、大和国家の氏姓制度の基本となる氏族から土地・人民を取り上げ、その氏族を解体するとともに、中国の制度にならって律令に基づく中央集権的政治体制を確立し、天皇を中心とする政治体制の再建を目指すものであり、その理念は聖徳太子の政治のそれと一致しているが、太子の政治がきわめて観念的な改革で、氏族の制度を根本から変えるものでなかったのに対して、大化改新の改革は、その根本的な改革をめざした点に差異がある。

  

はじめにもどる

                                                                                                                                                                                                    歴史に関する逸話                                                                             
古代最大の内乱・壬申の乱・・・乱の原因
                                                                壬申の乱は古代最大の内乱といわれます。これは、天智天皇の死後、その後継者をめぐって天智天皇の息子の大友皇子と、天皇の弟であった大海人皇子との間で起こった戦争でした。2人は叔父と甥という関係でしたが、大友皇子は天智天皇の子とはいえ、母親は身分の低い女官でした。これに対して、大海人皇子は天智天皇と同じく斉明天皇を母とし長年兄を助けて政治にかかわってきた実力者でした。しかも、当時は後世のような長子相続が一般的でなく、兄弟相続が有力だったことも、要因の一つと考えられています。それ故天智天皇は弟の大海人皇子を皇太弟に立てて次期後継者としたのです。しかし、兄弟の仲は次第に不仲となっていきました。その原因は天智天皇が作ったのです。天智天皇の長子大友皇子は前述のように卑母の所生でしたが、人並み以上の資質に恵まれていたため、晩年の天智天皇は大友皇子に将来を託そうと考え、大友皇子を太政大臣に任命して大友皇子の政治的地位の強化をはかりました。このため皇太弟大海人皇子の地位は不安定なものになり、大海人皇子は天智天皇の心変わりと強引なやり方に強い不満と反感を抱いたのです。こうした条件が重なり、大友皇子と大海人皇子は、対立していきました。まもなく天智天皇は病床に伏す身となり、枕元に大海人皇子を呼んで後のことを託す旨を告げたのですが、しかし、天智天皇の真意を見抜いた大海人皇子はこれを固くことわり出家して、吉野に逃げ野心のないことを公にしました。その二ヶ月後の671年12月に天智天皇が没しました。明けくれば、壬申の年(672)吉野で忍従の日々を送っていた大海人皇子は、天智天皇没後の政情不安のさなかの6月24日、わずかな従者とともに急拠東国へ進発し、ここに壬申の乱が勃発した。とはいえ、壬申の乱は単なる皇位継承の争いではありませんでした。俗に中大兄皇子と大海人皇子が、女流歌人である額田王を争ったためともいわれますが、ことはそんなに単純なものでなく、大化改新以前の豪族と地方豪族との対立、急進的な内政改革に対する人々の不満などが根底にあったのです。天智天皇の後継者である大友皇子は、地方豪族を味方につけた大海人皇子に敗れ、わずか1ヶ月で自殺に追い込まれてしまいます。勝利した大海人皇子は即位し、天武天皇になります。                                      
万葉の歌人ー額田王と・・・・日本史上に残る多くの歌人を生み出した「万葉集」。収録された4500余首の歌は、古代人の生活を知る貴重な文献である。

★兄弟2人の皇子と結ばれた額田王              
額田王といえば、天智天皇、天武天皇(大海人皇子)2人と結ばれた悲恋の歌人として知られています。なぜ2人と・・・と不思議に思われる方もいらっしゃるでしょうが、もともと、額田王は、大海人皇子と深い関係にあって、子供までもうけていました。このとき額田人は15歳、大海人皇子は16歳でした。ちなみにこの子は、天智天皇の子・大友皇子に嫁いだ十市皇女です。この後額田王は天智天皇の愛を受け入れて、天智天皇のもとに嫁いでいくわけですが、これを無理矢理引き裂かれた悲劇と見るかどうかによって、額田王という人物の捉え方、またこの時期の女性像といったものが、大きく違ってきます。額田王は宮廷に仕える女官たちのなかでも、とりわけ神を祀るのがうまかった。こういった神に仕える女性は、普通永遠の処女ともいえる存在であって、並の男性がうかつに近寄れるものではないのですが、神に等しい存在の天皇、皇太子のレベルになると話は違ってくるのです。今のような一夫一婦制の世の中と違って、この時代は相手が神(に等しい存在)であったら、貞操観念もなにもなくなってしまう時代でした。だから額田王の場合も、大海人皇子と結ばれて子供までできたのだけど、神としての資格のある男に求愛されたときには、神に仕えるものとしては、その求めに応じなければならない、これが第一義だったわけです。一方言い寄る男性の方は、神に仕える女性を手に入れることは、その神を祀る国を手に入れることに等しい、という考え方を基本的にもっています。ですから、天智天皇と大海人皇子の額田王をめぐる争いはただ単に一人の女性を奪い合ったというような、ゴシップネタではなく、大和を支配する王を決める真剣勝負でもあったわけです。
                                                                                         

★★  頻出度の高い入試問題の一問一答
1)東北地方の「まつろわぬ民(支配に服しない民)」は何と呼ばれたか。


2)彼らを平定するため、孝徳天皇の時におかれた、越後の2つの城柵は何か。


3)ここを拠点に、秋田・津軽の「まつろわぬ民」を平定したのは誰か。


4)唐・新羅に滅ぼされた百済の再興に向かった日本軍が、663年に大敗した戦いは何か。


5)中国東北部から朝鮮半島北部に勢力を有していたが、668年、唐・新羅に滅ぼされた国は何か。


 

★★  センター問題                                                                     
日本の歴史の上で戦争にかかわる事柄について述べた文章を読み,下の問い(問1〜2)に答えよ。(引用文は,一部省略したり,書き改めたりしたところもある。)
古代の中央集権国家は,対外戦争や内戦などをへて成立した。大和政権は,唐と新羅による百済征服の事態に対抗して,百済の残存勢力と結んで朝鮮半島に軍隊を派遣した。しかし,白村江で唐の水軍に敗北し,撤退した。その後,天智天皇は軍備を強化するとともに,内政改革につとめた。ところが,天智天皇が没すると(a) 内乱が勃発し,朝廷や豪族の諸勢力を二分する戦闘が大和や近江を中心にして行われた。内乱の終息後,国家制度の整備がはかられ,8世紀初頭にいたり,律令にもとづく中央集権国家の体制が確立した。一方,九州地方から東北地方におよぶ古代国家の領域は,7〜9世紀の時期に,それぞれ征討軍の派遣や軍事的圧力のもとに,(b)隼人や蝦夷が鎮圧され,あるいは服属を強制されることによって成立した。
 

問1 下線部(a)の内乱に関連して述べた文として誤っているものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。
@ この内乱は,天智天皇の子の大友皇子を中心とする勢力と,天智天皇の弟の大海人皇子を中心とする勢力の間で戦われた。
A この内乱では,大海人皇子の軍が勝利し,大海人皇子は即位して天武天皇となった。
B この内乱の終了後に,はじめて遣唐使が派遣され,国家制度の手本として唐の大宝律令が導入された。
C この内乱の終了後に,八色の姓が定められ,諸豪族は新しい身分秩序に編成された。



問2 下線部(b)の隼人や蝦夷について述べた文として正しいものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。 
@ 坂上田村麻呂と阿倍比羅夫は,7世紀に南九州に遠征して隼人を征討した。
A 8世紀においても,南九州や東北地方の住民は農業生産を行わず,採集・狩猟経済により生活していた。
B 聖武天皇の時期には,蝦夷征討が進められたが,同時期に行われた長岡京の造営とともに多くの国力を費やすことになった。
C 東北地方の陸奥・出羽両国には,蝦夷の勢力を支配するために,多賀城・胆沢城・秋田城がつく られた。

<解答>
問2(解答)(4)・(1)は誤り。阿倍比羅夫が蝦夷を征討したのは7世紀頃、坂上田村麻呂が蝦夷を征討したのは8世紀後半から9世紀である。それに、南九州に遠征して隼人を征討したのではない。(2)は誤り。弥生時代に水稲農業が開始され、狩猟・漁労も併存していたが、農業経済が中心であった。稲作の普及は、弥生時代の前期に、西日本一帯に広まった。そして東日本には中期、東北地方に普及したのは、後期とされている。(3)は誤り。聖武天皇の時期ではなく、桓武天皇の時代である。新しい帝都の建設(造作)と律令国家の領域の拡大(蝦夷征討=軍事)の2つの政策を中心課題とし、帝都は、長岡京を経て、794年に平安京として実現する。                                               

 

★★  論文問題

(1)大化の改新の方針が、次第に実現されていくにしたがって、以前の中央豪族・地方豪族の立場はそれぞれどのように変わって云ったか。次の語群の中から適当なものを2つ選んで、それを用い50字以内でそれぞれ説明せよ。
(郡司・食封・国造・部曲)
<解答>
(1)中央豪族は、部曲・田荘などの氏有民・氏有地を没収されたが、食封等を与えられ、貴族の身分が与えられた。
(2)地方豪族の国造や県主は、郡司の地位を与えられたが、中央貴族の国司の下の下級役人にすぎなかった


(2)白村江の戦の相手はどこの国か。その結果どうなったか、30字以内でまとめよ。(岡山大)
<解答>
唐・新羅。日本軍が大敗し、半島支配を断念。対外防備と国内改革に専念した。

(3)天武天皇は律令制度の確立に力を注いだ人といわれる。どのような仕事をそういわれるか。また、その意義について説明せよ。
(新潟大)
<解答>
天智天皇の時制定された近江令についで、はじめて律令ともにそろった浄御原律令を編集し、律令制定事業を編集し、律令制定事業をおおきく進め、飛鳥浄御原宮につづいて、わが国最初の都城制にもとずく本格的な都である藤原京の建設に着手し、中央の官僚組織を整えるとともに、皇族を中心に役人を能力によって編成する八色の姓を制定してその制度化をはかった。また部曲・食封を廃止するとともに庚寅年籍を作製し、全国的に班田制を実施するとともに租庸調制を確立した。また聖徳太子の政にならい本格的な歴史書の編纂を計画するとともに、国家仏教政策を強力に推進した。このようにして天武天皇は、壬申の乱の勝利で、大化改新の当初以来の保守派との闘争に決着をつけ、天皇を中心に強力な政治を実施しそれにより大化改新の詔の内容がはじめてこの天皇の時実現したといわれる

(4)八色の姓の制定は歴史上どのような意味をもっていたか。25字以内で説明せよ。
<解答>
皇族中心に貴族を能力により編成する官僚組織の確立。

 

7)天武政治の特色
天武天皇の政治
・・・・中央集権国家の確立

675年・・・・664年制定の諸氏の部曲(民部・家部)を廃す
部曲は646年廃止(改新の詔)→664年復活(中大兄皇子)
681年・・・・飛鳥浄御原令の編纂開始→(施行=689年持統天皇)
        国史編纂事業
684年・・・・八色の姓制定(皇親中心の身分秩序)

 8)持統天皇
686年・・・・天武天皇崩御→皇后う野皇女称制
689年・・・・飛鳥浄御原令施行
690年・・・・皇后即位=持統天皇・庚寅年籍造籍→670年庚午年籍(天智天皇)
694年・・・・藤原京の造営(本格的都城制の最初の都)・・・持統・文武・元明

 9)白鳳文化・・・大化改新〜平城京遷都、天武・持統朝中心
特徴・・・・律令国家建設の文化=力強さ・清新の気・明朗、初唐文化の影響が強い
仏教・・・・鎮護国家の性格が明確
      官立寺院(国家管理の寺)→大官大寺・薬師寺・川原寺・飛鳥寺
仏教=鎮護国家を祈る
諸豪族の寺院・・・山田寺・桧隈寺(ひのくま)など

歴史・文学
国史の編纂
・・・・天武天皇―「旧辞」「帝紀」(6世紀ごろ成立)をもとにした→cf、のちの「古事記」「日本書紀」編纂の出発点
文学・・・・和歌―「万葉集」(8世紀)(万葉歌人―柿本人麻呂・額田王ら)
美術
建築
・・・薬師寺東塔(初唐様式)
彫刻・・・・興福寺仏頭(元山田寺本尊、山田寺=蘇我倉山田石川麻呂発願)
      薬師寺金堂薬師三尊像・薬師寺東院堂聖観音像・法隆寺阿弥陀三尊像・法隆寺夢違観音像

薬師寺薬師如来像

山田寺仏頭(興福寺仏頭)

絵画―法隆寺金堂壁画(1949年焼失)―敦煌壁画に類似
    高松塚古墳壁画(1972年発見)




★  
頻出度の高い入試問題の一問一答
1)天武・持統天皇朝を中心とする律令国家形成期の文化で、初唐文化の影響をうけ、清新で活力に満ちた文化は何か。


2)律令国家の仏教保護政策によって建立された、官立大寺院を2つ挙げよ。


3)この時期の代表的建築物で、裳階をつけた六重塔のようにみえる三重塔はどこの寺か。


4)白鳳期の代表的彫刻で、薬師寺にある若々しさに満ちた三体の仏像を総称して何というか。


5)この時期の代表的彫刻で、もと山田寺の本尊であったものが奪取され、のち雷火で焼け落ちて頭部のみが残っているものは何か。


 

 10)律令一覧表
近江令
・・668年制定(天智天皇)・・中臣鎌足編集・・22巻・・671年施行(天智天皇)
飛鳥浄御原令・・681年以降制定(天武天皇)・・編者は不明・・22巻・・689年施行(持統天皇)
大宝律令・・701年制定(文武天皇)・・刑部親王、藤原不比等等編集・・律6,令11・・702年施行(文武天皇)
養老律令・・718年制定(元正天皇)・・藤原不比等編集・・律10,令10・・757年施行(孝謙天皇)

 11)令の注釈書
令義解・・・・養老令の官撰注釈書(清原夏野ら、833年)
令集解・・・・養老令の私撰注釈書(惟宗直本)→大宝令の復元

 
12)律令体制とその機構
(1)官制
1,最高機関
・・・・太政官(政治を総覧)
太政大臣・左右大臣・大納言など公卿(三位以上の高官)の合議で運営
神祇官は神祇祭祀を管掌し、国政にあずからない
2,実務機関・・・・八省・弾正台・五衛府
八省・・・・中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内省で政務分担
弾正台・・・風俗粛正・官吏監察・治安維持
五衛府・・・衛門・左右兵衛・左右衛士府で宮城警備
四等官制・・・長官・次官・判官・主典(用字は異なる)
3,地方の支配
行政区
・・・・畿内・七道―国(国司)・郡(郡司)・里(里長)
地方官・・・・要地=左右京職―{東西市司}(京師内の民政)
            摂津職―(摂津の行政)
            太宰府―{防人司・筑前国}(九州内の民政・軍事)
      その他=国司(中央から派遣、任期6年、後に4年。   郡司(国造などの在地豪族が就任)らが協力支配
(2)官吏
官位相当制
=位階に応じた官職に任命される制度
大学を出て試験に合格。諸国から推挙され中央の試験に合格。蔭位の制→官吏になる。
(蔭位の制)→三位以上の子・孫(蔭孫)、五位以上の子(蔭子)は21歳になると自動的に官位をもらい官職につく
(3)良と賤
良民
・・・・五位以上の貴族(三位以上=貴、五位以上=通貴)・一般公民(品部・雑戸もふくむ)
賤民・・・・五色の賤=陵戸・官戸・公奴婢(以上官有)、家人・私奴婢(私有賤民)
経済的収入・・・・位田(五位以上)・位封・位禄・季禄・資人・職田・職封など
(4)司法
上級裁判所―天皇・太政官・・・・・流刑・死刑決定
中級裁判所―国司・刑部省・・・・・徒刑決定
下級裁判所―郡司・在京諸司・・・・・笞・杖刑決定
刑罰・・・・笞・杖・徒・流・死(五刑)
八虐(恩赦の適用なし)・・・・謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義
上級者は八虐以外の犯罪であれば免刑(但し銭を払う)=贖罪
(5)班田収受制
中国の均田制模範・・・・均田制(唐では正丁を主たる対象)
日本の均田制・・・・6歳以上の男女すべてに口分田を班給
男子=2段、女子=1段120歩(男子の3分の1を減ず)
官有賤民の男女=良民の男女に同じ
私有賤民の男女=良民の男女の3分に1、男=240歩 女=160歩
1段=360歩、1町=10段
口分田の班給―6年に1度(6年1班という)
口分田の班給(郷戸主を通じ一括班給、死者の口分田は、次の班年の時に収公する)される年=班年・・・・戸籍(6年ごとに作製)に基づく
口分田を国家が掌握するための
条里制を施行・・田地を6町四辺に区画し、一辺を条、他の辺を里とよんだ。田地の所在は、条、里、坪で示された。

口分田以外の田
位田・職田―官位・官職に応じて私有を認められ、位職を離れたら返還する田
功田―国家に対する勲功に応じ賜る(輸租田)
神田・寺田―信仰上寺社へ寄進された土地(不輸租田)
乗田口分田・位田・賜田・墾田などの私田を班給した残りの田→賃租

13)農民の負担
(1)租(正税)
・・・・田1段―稲2束2把(収穫高の約3%、収穫高=約72束)
国の財源・・・・国衙に納める
租(正税)は一部は=出挙・・・公出挙・私出挙(稲・栗の貸付)、稲=種籾

       一部は=白米にして京におくる(諸司の食料)
(2)調・庸―成年男子の人頭税
調
・・・・郷土の産物(絹・あしぎぬ・糸・綿・布など)
・・・・歳役(都での10日の労働役)の代わりに布で代納、正丁=2丈6尺(約8m)
調・庸=運脚夫が運搬(官人に支給す禄や官庁の費用)→食料自弁、途中で死亡するもの多い
(3)雑徭・・・・地方での公役(国司徴発)1年に60日→cf、60日→30日半減(桓武天皇)
(4)義倉・・・・飢饉対策として粟の上納

(5)兵役・・・・戸内の正丁3人に1人の割合で軍団に上番
         兵士―調・庸は免除
兵役―(衛士)=1年・・・・・・都・(防人)=3年・・・・・・九州太宰府
(6)仕丁・・・・・・正丁50戸に2人の割合(3年間)中央官庁の雑役

はじめにもどる

歴史に関する逸話                                                                                   
班田農民の生活どのようであったでしょうか!
                                     
律令制の租税は、郷戸を単位として課せられました。郷戸は2〜3人の家族で構成されていたとされます。家族は、竪穴住居(畿内や西国では、平地式の掘建柱住居が普及し始めたとされています)に住んだようです。当時の結婚は、男が通い(妻問婚)で、後にどちらかの父母と同居したようです。また家族のなかで母の発言力も大きかったとされています。女性は、結婚しても姓をかえず、自分自身の財産を有していました。なお、租税が郷戸を単位に課せられ、家族が共同の責任を担っていたので、浮浪・逃亡の実例では、租税が直接にかかる正丁・少丁・次丁などの男子(課口または課丁と呼ぶ)だけでなく、租税負担の無い不課口である女子や子供も目立つのであります。                                                                                                                                            
 

★   頻出度の高い入試問題の一問一答
1)天智天皇の死後、672年におこった、叔父・甥のあいだの皇位継承をめぐる内乱は何か。



2)この内乱に勝利した大海人皇子は、都をどこに移し(a)、何天皇になったか。


3)天武天皇がすすめた、皇族中心の政治体制を何というか。


4)684年に制定された新身分制度は何か(a)、またその最上位に新設された姓は何か(b)。


5)天武天皇の時代より作成され、689年に施行された法令は何か。


 


3平城京の時代

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  1)平城京遷都
藤原京{旧豪族勢力の強大化と交通不便・狭い}→平城京{律令国家―国家威容誇示・人心の刷新}
710年(和銅3年)・・・・
藤原京(694年)<持統・文武・元明>から平城京遷都<元明天皇〜桓武天皇=奈良時代>
都城制―唐の長安城模倣
大内裏(中央=朱雀大路、左京=東京、右京=西京、外京)
人口約20万人(当時の人口=約500万人)

         平 城 京 朱 雀 門(復元)

  2)辺境の開拓
蝦夷征討・隼人征討
(1)蝦夷征討=東北地方
孝徳天皇  
647年・・・・渟足柵
        
648年・・・・磐舟柵
斉明天皇  658年・・・・阿倍比羅夫―蝦夷<秋田地方>
元明天皇  708年・・・・出羽郡設置<越後国>
        
712年・・・出羽国設置
元正天皇  720年・・・・蝦夷反乱<陸奥国>
聖武天皇  724年・・・・蝦夷反乱
               多賀城設置<陸奥国>=鎮守府兼国府
        
733年・・・・雄勝郡設置 ・秋田城設置<出羽国>

(2)隼人征討=九州南部
元明天皇  
713年・・・・大隅国設置
元正天皇  720年・・・・隼人の反乱←大伴旅人→cf、(子)大伴家持=「万葉集」

3)産業の発達
都城の造営・官道の整備(七道)→駅制の整備
物資の交換―市
平城京・・・・東市・西市―市司が監督・
古い市・・・・海石榴市・軽市<大和>、餌香市<河内>、阿倍市<駿河>
708年(和銅1)年・・・・和同開珎―都と畿内周辺に流通(地方=物々交換が主流)→cf、皇朝12銭=和同開珎(708年〜乾元大宝(958年)
cf、武蔵国より産出=和銅と改元
711年(和銅4)年・・・・蓄銭叙位令(内容=従六位以下のものは銭十貫文で位一階進級)―貨幣の流通を促すため
農業
鉄製農具普及・潅漑技術の進歩・開墾事業→生産性の向上
cf、弥生時代=直播・穂首刈→田植・根刈=奈良時代

手工業
大陸技術の伝来により高級品を製造・・・宮廷や寺院の工房
調・庸(庸布)の生産・・・・・・・・・・・・・・・・・国衙の工房
鉱産資源の開発
奈良時代以前
668年
・・・・石油<越後国>(天智天皇)
674年・・・・銀<対馬国>(天武天皇>
698年・・・・金<対馬国>(文武天皇)→大宝改元
708年・・・・銅<武蔵国>(元明天皇)→和銅改元
奈良時代
749年・・・・金<陸奥国>(聖武天皇)→天平感宝改元(4月)                                                               ↓ 
大仏=金銅仏→752年大仏開眼供養(孝謙天皇)

 4)公地公民制の動揺
均田制とのちがい

公地・公民制
→8世紀中頃崩壊
公民制の崩壊の原因→律令制の重い負担→農民の浮浪・逃亡
中国の均田制・・・口分田制(日本の班田制に採用)=80畝(1畝は5.5a、1代限り)
           永業田制(世襲)=20畝―日本の班田制では無視
日本の口分田制の限界・・・・1,潅漑施設をもつ墾田に限定
                  2,開墾地に農民の意欲わかず(国司・収公のため)
                  3,口分田の数量不足(人口増加)
墾田永年私財法
農民の負担過重
→農民の窮乏(浮浪・逃亡・偽籍)→口分田荒廃。→cf、農民の窮乏については、「貧窮問答歌」=山上憶良・・「万葉集」を参照。
722(養老6)年・・・・・良田百万町歩開墾計画
723(養老7)年・・・・・三世一身の法←長屋王施行
              新耕池をつくり開墾した者=3代の私有
              旧耕池を利用して開墾したもの=本人1代私有
743(天平15年)年・・・・・墾田永年私財法→荘園の発生
                 身分による開墾制限(一品・一位=500町〜庶民=10町)
765(天平神後1)年・・・・・加墾禁止令―寺田以外の開墾禁止→道鏡政権
772(宝亀3)年・・・・・開墾制限撤廃(無制限・無期限)→荘園の増加

歴史に関する逸話                                                                             
長屋王の変にまつわる話しをしよう!・・・・事実無根の密告が長屋王を死に追いやった。全ては藤原氏のたくらみだった。この事件は藤原氏が一部の皇族と結んで長屋王を除いた事件です。奈良時代の宮廷では、皇親と藤原氏との激しい政争が繰り返されました。長屋王の変はその最初のものです。藤原氏の成長のきっかけは、中臣鎌足が中大兄皇子をたすけて大化改新を行ったことにあります。鎌足は長い期間にわたって中大兄皇子を助けました。そして皇子が天智天皇となって即位したのち、鎌足は宮廷一の実力者となりました。そして、その死にあたって、藤原氏の姓と大織冠(たいしょくかん)の冠位を授けられました。後の正一位にあたるその冠位を与えられたものは鎌足だけです。そして「大宝律令」で正一位にはじまる位階がつくられてからも、正一位にまで昇った人は少ないのです。鎌足の子不比等は「大宝律令」の制定などをつうじて宮廷に地位を築きました。持統朝から、元正朝にかけて、かれは宮廷一の中国通として重んじられました。特に、奈良に平城京がつくられてからは、彼の主導のもとでの中央集権化が成功しました。この時期に律令政治の基礎が築かれたといわれています。養老四年(720)に藤原不比等がなくなると、皇親を代表する長屋王が政権を握りました。藤原不比等には四人のすぐれた男子がいました。武智麻呂(むちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)です。かれらをまとめて藤四子といいます。藤四子は朝廷では長屋王の下位におかれていましたが、彼らは王より年長であったため、長屋王に良い感情をもたなかったといわれています。しかも、長屋王は中央集権をゆるめる政策をいくつもうちだしました。不比等の政治を民衆を苦しめるものとみて、税を軽くして人々の生活を安定しようとしたのです。藤四子はそのような政策にことごとく反対しました。そういった状況の中で、藤四子は長屋王を除く機会をうかがっていました。一部の皇族を自派に引きずり込むとともに、王の身辺にスパイを送り込んだのです。神亀五年(728)、聖武天皇と藤原氏出身の光明皇后の間に生まれた基(もとい)皇子が一歳の誕生をむかえる直前に病死しました。天皇は大変悲しみ、藤原氏もこれで自家の勢力をのばすあしがかりを失ったことになったのです。その翌年の2月に、長屋王の陰謀を密告したものがいました。漆部君足(ぬりべのきみたり)と中臣宮処東人(なかとみのみやこのあづまんど)であります。かれらは、長屋王が左道を学び国を傾けようとしているといったのです。そして基皇子は長屋王のせいで早死にしたとも告げました。左道とは呪術をあらわしこの時代に、中国から渡ってきた陰陽五行(おんみょうごぎょう)の説が宮廷にひろまりだしていました。それを研究すれば、自分の運勢や国の盛衰を知ることが出来るといわれていたのです。長屋王は学問好きでありましたので、そのような新たな占術にも関心を示したのでしょう。しかし、藤原氏は表面的には長屋王と親しく振る舞い、ことある毎に王をたてています。そこで、長屋王が藤原氏に対抗するために基皇子を除く呪術を行ったとは思えません。ところが、天皇は直ちにその密告をとりあげました。そして、王が逃れないように、鈴鹿、不破(ふわ)、愛発(あらち)、の関所を固めました。そして、藤原宇合に命じて兵士をひきいて長屋王の館を包囲させました。長屋王は何事が起こったかとただ驚くばかりでした。ついで舎人親王(とねりしんのう)、新田部(にたべ)親王らが、王の邸に入り王の罪をただしました。きっちり調べれば、漆部君足らの告発が事実無根であることがわかっていたはずです。ところが、舎人親王らは、始めから王を罪人と決めてかかっていたのです。そのため、王は舎人親王らの糾問が行われた翌日、自殺させられています。このとき、王の子供たちも死を賜っています。王の妻にあたる吉備内親王(きびないしんのう)も、夫と子のあとを追っています。このとき、藤原氏はなるべく表にたたず、舎人親王らを押し立てて、皇親が皇親を除いた形で事変を処理させています。このように賢く振る舞ったために人々は長屋王の死後に藤四子が政権を握ることに何の疑問も感じなかったのです。長屋王の不運な死に同情するものが多かったであろうと思われますが、長屋王の祟りの話しがまことしやかに伝えられています。天皇は、長屋王の子供らの骨を川に散らして海に流しました。ただ、王の骨だけは、土佐国に埋めました。すると、その国の農民が次々に熱病にかかりました。そこで、人々はこのままでは土佐国の百姓が死にたえますと官に申したてま した。そのため遺骨を紀伊国の離小島に移したところ、土佐国の伝染病は収まったといいます。この時代から、政争で敗れた者の怨霊の存在が信じられるようになっていったのです。    
 

      頻出度の高い入試問題の一問一答
1)奈良時代における、庶民の一般的住居形態は何か。


2)奈良時代、農民が税負担などに耐えかねてとった3つの方法は何か。


3)722年、不足した口分田を補うため出された、班田用田地の拡大政策は何か。


4)723年、この政策の失敗後に出された、期限つきで墾田の私有を認める法令は何か。


5)743年、橘諸兄政権の下、墾田の永久私有を認め、墾田拡大政策に転じた法令は何か。


 

★★   センター問題                                                                          古代の九州でおこった事件と,その対応について述べた次の史料または文章A〜Bを読み,下の問い(問1〜6 )に答えよ。(史料は,一部書き改めたり,省略したりしたところもある。)

A 大宰少弐従五位下,藤原朝臣広嗣,遂(ついに)に兵を起こして反す。(中略)
逆人広嗣もとより凶悪,長じてよこしまを益す。(a)その父,故式部卿(藤原宇合),常に除き棄てんと欲すれども,朕(聖武天皇)許すことあたわず。(中略)遠きに遷(うつ)らしめ,其の心を改めんことを願う。今聞くに,ほしいままに狂逆をなして,人民をす擾乱(じょうらん)す。(中略)
(b)朕思うところ有るによりて,暫く(しばらく)関東に往(ゆ)かんとす。
(『続日本紀』天平12年〔740年〕9月〜10月条)

問1 藤原広嗣の乱の時,政権の中枢にあり,玄ムや吉備真備を重用した人物として正しいものを,次の@〜Dのうちから一つ選べ。 
@ 長屋王 A 舎人親王 B 橘諸兄
C 刑部親王 D 橘奈良麻呂


問2 下線部(a)の藤原宇合は,兄弟3人と共に8世紀前半に政権を担当した。彼ら四兄弟について述べた文として誤っているものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。 
@ 彼らのうち,宇合の系統の北家は,広嗣が反乱をおこしたため没落した。
A 彼らの父は,律令制度の確立に力をつくした藤原不比等である。
B 彼らはいずれも,当時大流行した疫病で,あいついで世を去った。
C 彼らは,聖武天皇の皇后となった光明子の兄弟にあたる。


問3 聖武天皇は,下線部(b)のように告げたのち,平城京を離れて東へ向かった。この前後の事情を説明した文として最も適当なものを,次の@〜Cのうちから一つ選べ。 
@ 広嗣軍に加勢した隼人に呼応して,蝦夷も反乱をおこしたので,これを平定するために,聖武天皇は東へ向かった。
A 聖武天皇はこの反乱に動揺したため,都を離れて東の伊勢・美濃などを転々とし,また恭仁・難波・紫香楽と,次々に都を移した。
B 聖武天皇は,反乱の鎮圧を祈願するために盧舎那仏建立を思い立ち,仏像を鋳るのに必要な関東の銅を求めて,東に向かった。
C 九州の反乱の危害が身におよぶのを避けて,聖武天皇は都から東へ向かったので,乱が平定されるとただちに平城京へ戻った。


 ★★ 
論文問題
わが律令国家は、内外のいかなる歴史的条件のもとに成立したか。600字以内で答えよ。                (筑波大)
<解答>
6世紀以後天皇を中心とする氏族の連合国家である大和国家は、大きく変動していった。国家の中心である天皇の地位が後退しその後継者をめぐって争いが続き、有力氏族の干渉をまねいた。一方こうした天皇の地位の後退に対して、大和国家の中央の氏族である大伴・物部・蘇我などが、次第に権力を握り互いに争いを繰り返していった。さらに天皇の地位の後退にともない、これまで天皇の支配に服してきた地方豪族の反乱があいつぎ、毛野氏の乱、吉備氏の乱につづいて磐井の反乱などがおこった。聖徳太子の政から大化改新をへて7世紀後半まで行われた政治改革は、こうした状況に危機感を持った太子をはじめ中大兄皇子、中臣鎌足などの進歩的な皇族・貴族と遣隋使・遣唐使とともに中国にわたり、中国の進んだ政治制度を学んで帰国した留学生・留学僧が、中国の進んだ制度をとりいれつつ、保守派の豪族を押さえながら、天皇を中心とする強力な国家体制の確立をめざしていった改革であった。一方こうした改革の背景には、当時の中国・朝鮮の状況も反映していた。中国では長い内乱が隋に続いて唐という強大な国家により統一され、朝鮮でも新羅による統一国家の確立が見られ、そのためかっての大和朝廷の朝鮮支配の根拠地であった任那日本府が滅ぼされ、その後再三の植民地回復の努力も実らなかった。国内の改革の背景にはこうした中国・朝鮮の国家に対抗する強力な国家体制を確立する意図が見られた。



  5)奈良時代の政界の動向
(1)藤原不比等
藤原不比等→父鎌足の功績→封戸5000戸
不比等(右大臣昇進) 娘藤原宮子→文武天皇夫人
後妻県犬養三千代(女帝に信任)

(2)藤原光明子の立后
720(養老4)年・・・・藤原不比等死去→cf、大宝律令(701年)、養老律令(718年)編纂
729(天平1)年・・・・長屋王の変→藤原四氏の進出・光明子立后
737(天平9)年・・・・藤原四子<武智麻呂(南家)・房前(北家)・宇合(式家)・麻呂(京家)>病没←疫病(天然痘)流行←遣新羅使
740(天平12)年・・・・橘諸兄政権=吉備真備・玄ム←藤原広嗣の乱<太宰府>。
聖武天皇―政界の動揺・社会不安(疫病)→鎮護国家思想=仏教政治

741(天平13)年・・・・国分寺・国分尼寺建立の詔<恭仁京>
               国分寺=金光明四天王護国之寺
                 国分尼寺=法華滅罪之寺
           cf、護国三部経―金光明最勝王経・妙法蓮華経・仁王経
743(天平15)年
・・・・盧舎那大仏造立の詔<紫香楽宮>
              盧舎那大仏→紫香楽<近江>→東大寺<大和>
(3)仲麻呂の権勢
752(天平勝宝4)年
・・・・東大寺大仏開眼供養(孝謙天皇)→開眼導師=菩提僊那(インド僧)
757(天平宝字1)年・・・・橘奈良麻呂の乱→藤原仲麻呂政権→cf、749年紫微中台長官
藤原仲麻呂政権757年・・・・紫微内相就任、養老律令施行
          
758年・・・・恵美押勝の名賜う
          
760年・・・・太師(太政大臣)
          767年・・・・恵美押勝の乱

歴史に関する逸話 
                                                   
 

★ 藤原広嗣の乱について語ろう

藤原広嗣が時の権力者、橘諸兄に対して起こした反乱です。官軍の手で簡単に平定されました。藤四子と呼れる藤原不比等の子供たちは、父が定めた「大宝律令」にもとづく中央集権国家を保持する政策をとりました。それは民衆にとってかなり苛酷なものでありました。しかも、それはこの時期にようやく力をつけてきた仏教勢力の成長を押さえるものでもありました。天平9年(737)、遣唐使が持ち込んだ天然痘が流行しました。そのため、藤四子の藤原武智麻呂(ふじわらむちまろ)、房前(ふささき)、宇合(うまかい)、麻呂(まろ)は相次いでなこなりました。これをきっかけに、再び、皇親勢力が力を伸ばすことになります。敏達天皇の子孫にあたる橘諸兄が政権を握り、皇室につらなる多治比(たじひ)氏の人々や、皇室に古くから仕えた大伴氏の人々がそれを支える体制がつくられました。この様に述べると、諸兄の政治は復古政治のように思えるかもしれませんが、しかし、かれはそれとは反対に、唐に留学してきた吉備真備(きびのまきび)、玄ムの二人をひきたてました。藤原不比等の時代の「大宝律令」は、すでに時代に合わなくなっていたのです。そこでかれは、新たな知識を持つ人々を活用して、現状にあった政策をとろうと考えたのです。諸兄政権のもとでは、民衆の負担を軽くする政策がとられました。また、さまざまな文化の振興策がおこなわれました。そして、寺院勢力の成長に応じる形で、かれらが自由に荘園経営を行えるように配慮しました。このような政策は、藤原氏の一部の者の目には律令制を崩す許すべからざる振るまいだとうつったのでしよう。なかでも、宇合の嫡子の広嗣は反諸兄政権の最右翼でありました。この時、のちの太政大臣にまで昇る藤原仲麻呂も皇親勢力に反発していましたが、彼はうまく相手との正面衝突を避け、光明皇后と結びつつ自己の勢力拡大をはかっていたのです。天平12年(740)、北九州にあった太宰府の兵力を握っていた藤原広嗣が、ときの政治を批判した上表文を中央に送りました。彼は太宰少弐(だざいしょうに)の地位にありましたが、このときはその上役にもあたる太宰師(だざいそつ)も太宰大弐(だざいだいに)も都にいました。広嗣はいいました。近頃天地の災異が続くのは、政治がよくないことによる。玄ムと吉備真備を除かねば大変な事が起きる。これに対して朝廷は、その申し出を無視しました。すると広嗣は太宰府の兵を動員して挙兵しました。天皇は大野東人(おおのあずまんど)という有能な武将に1万7千の兵士を授けて西にむかわせました。さらに、畿内七道の諸国に命じて、國毎に七尺の観世音菩薩像一体をつくり観世音経10巻を写させました。戦勝祈願のためです。9月22日、大野東人は先発の兵士に、海を渡り、九州の入り口にあたる板櫃(いたびつ)の鎮という砦を襲わせました。そこは今の北九州到津にあたります。この時、板櫃鎮の指揮官はいちはやく逃亡しました。反乱軍と官軍との戦いは、10月9日に行われました。板櫃に攻め寄せた1万人の広嗣勢を、官軍の先手の6千人が迎え撃ちました。ところが、広嗣方の軍勢の心が一つにならなかったため、官軍はやすやすと勝利をおさめました。この反乱が藤原氏の勢力に何の影響力も及ばさなかったことに注目したいと思います。権力者の橘諸兄であっても藤原一門の広嗣を与党として朝廷から避けることは出来なかったのです。この時期の藤原氏はそこまでまで確固たる勢力を形成していたのです。しかも、広嗣の反乱を引き起こした責任者とされる形で、これ以後、宮廷での諸兄の評判は悪くなっていくのです。★ 続いて橘奈良麻呂の変について語ろう 橘奈良麻呂が藤原仲麻呂を除く政変を企てたが、事前に察知されて敗れた事件であります。これは、皇親政治と藤原氏の政治との最後の対決となった評価出来る事件です。橘諸兄は、敏達天皇の子孫にあたっていました。そして、皇親勢力から見て最後のよりどころとなるべき期待を背負っていました。そして、かれは、左大臣の地位について、一時期は、きわめて力を入れた善政を行ってきていたのです。その子が奈良麻呂です。藤原広嗣の乱の後宮廷の権力者であった橘諸兄の勢力は衰えました。そして、それに代わって、孝謙天皇の母にあたる光明皇太后が政治を動かす用になったのです。皇族出身の皇太后が幼い自分の子である天皇のかわって政治をみる例は多いのですが、しかし、光明皇后は藤原不比等の娘です。ゆえに、彼女が政治にあたったことは、皇室に代わって藤原氏が日本を動かすといっても過言ではないのです。そして、光明皇后が引き立てたのが、彼女の甥にあたる藤原仲麻呂だったのです。彼は皇太后の世話にあたる皇太后宮職(こうたいごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)と改め、その長官である紫微令についたのです。そして紫微中台に有能な人物をあつめました。このことによって、仲麻呂は左大臣の地位にあった橘諸兄を超える権力を手中にしたのです。さらに、天平勝宝7年(755)に、橘諸兄に仕えていた佐味宮守(さみのみやもり)という者が、諸兄が酒宴の席上、朝廷の政治批判する言葉を発したと密告しました。このとき、諸兄は自ら辞表を出して職を退きました。その翌々年、かれは寂しく死んでいったのです。それ以来、仲麻呂は思うままの政治を行うようになりました。藤原不比等がとった中央集権化政策が、長屋王の時代にいったんゆるみ、藤四子の手でふたたびもとにもどされました。さらに、橘諸兄がそれを現状にあった形に改めたのに、仲麻呂はさらにそれを不比等の時代のものに戻したのです。諸兄の子の橘奈良麻呂は、そのような、仲麻呂の振るまいが我慢できなかったのです。しかも、仲麻呂は紫微令を紫微内相と(しびないそう)改めて、紫微中台を太政官と同列においたのです。さらに、自分の都合の良い大炊王(おおいおう)=のちの淳仁天皇、を皇太子にたてたのです。天平勝宝9年(757)に、藤原仲麻呂は「養老律令」を施行しました。それは、藤原不比等が「大宝律令」を改訂する形でまとめたものです。仲麻呂は祖父の遺業を世に知らしめようとして、あえて、人々が使い慣れた「大宝律令」
を廃して、新たな律令を用いさせたのです。そのころから、多治比(たじひ)大伴などの有力豪族が、仲麻呂の勝手な政策に不満をもつようになりました。そして、その動きの中で、橘奈良麻呂は、武力で仲麻呂を除こうと考え始めたのです。天平勝宝9年、6月28日但馬王(たじまおう)らが橘奈良麻呂と大伴古麻呂が兵を集めて宮を囲もうとしていると天皇に告げました。しかし、この時は単なる噂として扱われました。天皇は、7月2日に宣命(せんみょう)を発し、藤原・橘一族はわが甥であるから心をあわせて朝廷のために働くよう命じました。ところが、その日の夜になって上道斐太都(かみつみちのろたつ)と言う者が、仲麻呂に奈良麻呂らの計画を具体的に 告げたのです。彼は、小野東人(おののあずまんど)と言う者から謀反に誘われたと いったのです。7月3日に、天皇は小野東人の取り調べを始めさせました。厳しい取り調べにあって、東人は翌日、奈良麻呂らの計画を白状したのです。これにより、一日の差で、仲麻呂と奈良麻呂との勝敗が分かれたことになります。奈良麻呂一味に対する仲麻呂の扱いは苛酷でした。仲麻呂は叛徒すべて白状させたのちに、彼らの主だった者を打たせ続け打ち殺させたのです。幸運にも死をまぬがれて流刑になった者はごくわずかでした。朝廷の記録は、この時死刑、流刑になった者は合計で443人に及んだといいます。仲麻呂は奈良麻呂の変を口実に、宮廷の名門とされる多くの氏を政界から追ったのです。多治比、大伴、佐伯などの氏はこの事件をきっかけに衰退していきました。                                                     

恵美押勝の乱について語ろう
橘奈良麻呂の乱を平定したのち、758年に大炊王が淳仁天皇となると、藤原仲麻呂は、恵美押勝の名をもらいました。それ以後からは、藤原恵美押勝となりました。そして、かれの、子供たちも藤原恵美朝狩などと名乗るようになりました。つまり、藤原氏のなかに、藤原恵美氏という新しい氏ができたわけです。しかも、それ以後押勝は子供達の地位を急速にひきあげました。このことが、藤原氏の人々の大きな反感をかったのです。押勝政権が続く限り、藤原恵美の人々が朝廷の要職を独占し、藤原氏はその下風にたたされることになるからです。押勝は、さらに官名を唐風に改めました。そして太政大臣を太師(たいし)にして、自分がその地位につきました。この官名の改称は、彼が太政大臣に昇るための策略であったのです。過去においても天智天皇の大友皇子などの有力な皇族が太政大臣に任命されていました。しかし、彼は今は太政大臣ではなく太師の官になったのだから、臣下である自分が太師になってもかまわないと考えたのです。そのような押勝の動きに対して、藤原永手(ふじわらながて)、縄麻呂(なわまろ)、良嗣(よしつぐ)、百川(ももかわ)、等がかげで結んで押勝を追い落とす策略を始めたのです。藤原氏のなかで孤立した押勝は滅亡への道をたどることになっていったのです。天平宝字四年(760)押勝を支えていた光明皇后がなくなりました。それまで孝謙上皇は皇太后の言いなりであったのですが、それを契機に上皇は押勝に反発しはじめました。彼女は、藤原氏の人々が押勝を見放したのを、察したのです。そのころ上皇は、看病禅師(かんびょうぜんし)として近づいてきた道鏡を重用しはじめました。道鏡の出現が押勝と上皇の仲を裂いたとする説もありますが、押勝はそれ以前に気ままな振る舞いによって宮廷の人々の信望を失っていたのです。762年孝謙上皇は淳仁天皇から国政の大権を取り上げ、以後自分が政治にあたると宣言しました。天皇は天皇としての祭祀などの小事だけを行えというのです。この時点の上皇の宮廷内の実力から見て、天皇はそれに対抗することができなかったのです。光明皇太后についで淳仁天皇の支えを失ったために、押勝一家は宮廷内で孤立してしまったのです。それ以後、上皇側と押勝側で宮廷の重要なポストの取り合いがはじまりました。その後はいろいろないきさつがありますが、その結果天平宝字8年(764)、仲麻呂(押勝)は反乱を起こしましたが、鎮圧され、押勝ら一味の主だった者340人はとらえられて琵琶湖畔で処刑されました。
  ★  続いて道鏡の左遷について語ろう 称徳天皇(孝謙天皇の重祚)の没後、天皇の寵愛を受けた道鏡が貴族たちの反感を受けて、下野国に左遷された事件です。恵美押勝の乱ののち、孝謙上皇は称徳天皇となって再び皇位につきました。そして称徳女帝のもとで、僧の道鏡とその一派が力をふるいました。道鏡は孝謙上皇の看病に当たったことをきっかけに上皇と結びついたのです。人々の噂では、道鏡と女帝は男女のなかになっていたとされます。しかし、実際には当時の政治は左大臣藤原永手、右大臣吉備真備らの貴族層の手に移っていました。女帝と道鏡の政権の基礎は、極めて弱いものだったのです。道鏡は大臣禅師(だいじんぜんし)となり、さらに天平神護二年(766)、法王の地位に昇りました。臣下でありながら王として扱われたのです。法王は、出家した上皇をあらわす法皇とは異なります。天皇は自分の地位を狙うものを恐れるあまり、多くの罪のない皇族を左遷しました。そのため、天皇の没後、天武天皇の子孫にあたる皇族で適当な皇位継承者が得られず、天智天皇の孫の光仁天皇が即位することになります。女帝である称徳天皇には跡継ぎがなかったのです。しかも、彼女に近い血筋の者で皇太子になり得るような者も見あたらなかったのです。彼女は聖武天皇と光明皇后との娘で、彼女には兄弟がなく、聖武天皇の兄弟もみあたらなかったのです。さらにその父に当たる文武天皇の兄弟もいませんでした。神護景雲三年(769)。宇佐八幡宮から、道鏡を天皇にすれば天下太平になるであろうと神託がだされました。八幡信仰は、奈良時代中期から盛んになりましたが、八幡神が東大寺の大仏の造立を助けたいと神託したことによります。それ以前の八幡宮は、豊前国の宇佐地方の地方神にすぎなかったのです。この時称徳天皇は大いに迷いました。彼女は道鏡を敬愛していましたが、皇族でない者を皇位につけることはためらいがあったのです。大和朝廷以来の豪族たちは、道鏡を天皇にすることに同意しないだろうとの考えからです。しかし、もう一度、朝廷から正式な使者をたてて神託を聞けば、反対者は黙るだろう。こう迷っているときに、女帝の夢に和気広虫(わけのひろむし)という女帝のそば近くに仕える熱心な仏教徒をわがもとに送れという八幡神の神託がありました。ところが広虫は、自分に代わって弟の清麻呂を行かせて下さいと願い出ました。だれからも清廉潔白な人物とみられていたのです。清麻呂が使者に立とうとしたとき、道鏡はひそかに、自分を皇位につけるよにしてくれれば何でも思いのままの願いを叶えようといいました。しかし清麻呂の受けた神託は、「天(あま)つ日嗣(ひつぎ)には、かならず皇緒(こうちょ)をたてよ」というものでした。皇族でなければ、天皇になるべきでないというものでした。その復命をきいた道鏡は大いに怒りました。そして、清麻呂の名を別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)と改め、かれを因幡国の地方官に左遷しました。しかしそのことで、宮廷の人々の道鏡に対する反感は決定的となりました。そして、それから半年後に女帝がなくなりました。女帝の没後の道鏡は哀れでした。道鏡が目を掛けた人々は、いちはやく道鏡派から離脱し、藤原氏側についたのです。孤立したからは、下野国の薬師寺別当に左遷されて都を追われました。道鏡が挙兵を企てなかったことだけが救いでした。おかげで、かれの一族は政権を追われただけで命を全うできたのです。


  4)道鏡の進出
764(天平宝字8)年・・・・藤原仲麻呂の乱→道鏡政権
道鏡政権                                                                                   761年・・・・孝謙上皇病気平癒
763年・・・・少僧都
765年・・・・太政大臣禅師
        加墾禁止令
766法王・・・・法王
769年・・・・道鏡皇位事件
769(神護景雲3)年・・・・道鏡皇位事件(宇佐八幡神託事件)
称徳天皇―和気広虫(法均尼)→(弟)和気清麻呂解決
光仁天皇(天智天皇孫)←藤原百川(式家)・永手擁立(北家)

  6)奈良仏教の展開と特色
(1)奈良仏教

国家仏教(鎮護国家思想)
南都七大寺・・・・・薬師寺・大安寺・興福寺・元興寺←(718年・・飛鳥寺=法興寺移転)・東大寺・法隆寺・西大寺
(2)行基の社会事業
行基(cf、平城京にくる運脚夫や雇役夫などの窮乏を救うため橋・池・溝などを設け
布施屋をつくった。また大仏造立事業に尽力)・道昭
(3)南都六宗
法相宗・倶舎宗・成実宗・三輪宗・華厳宗・律宗

cf、鑑真(伝記「唐大和上東征伝」―淡海三船)―753年12月薩摩国へ・唐招提寺(鑑真像=乾漆像)
東大寺戒壇院建立(cf、天下の三戒壇=東大寺戒壇院・下野薬師寺・筑前観世音寺)→聖武太上天皇・光明皇太后に授戒
(4)東大寺造営
{総国分寺}・・・・華厳宗=本尊(盧舎那大仏)・・・・cf、749年大仏完成・752年開眼供養
総国分寺は二度焼亡・・・・1180年平重衡。1567松永久秀



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★  定期テストに対応し頻出度の高い入試問題の一問一答

1)710年、藤原京から平城京へ遷都した時の天皇は誰か。


2)藤原京から平城京に移された多くの寺院のうち、藤原氏の氏寺は何か。


3)平城京の左京(a)と右京(b)に置かれた、諸国から集積された物資の官営交易の場所は何か。


4)平城京の遷都以降の70余年間、7代の天皇の時代を何時代というか。


5)奈良時代、都を起点とする七道の官道に、約16Kmごと、公用旅行者(官人)のための人馬の継ぎ立て施設がおかれた。この制度は何か。



  7)遣唐船の往来
(1)遣唐使
唐の制度・文化の摂取⇒律令国家の確立・文化発展に貢献
630年・・・・・第1回遣唐使=犬上御田鍬・・・632年帰国
894年・・・・・第18回遣唐使=菅原道真中止
cf、901年太宰府左遷、「日本三代実録」編集「類聚国史」「菅家文草」
遣唐使(18回中、15回実施)
(第3回)654年―高向玄理・・・・・(608年遣唐使、645年国博士)
(第7回)702年―山上憶良・・・・・(貧窮問答歌=「万葉集」)
(第8回)717年―吉備真備・玄ム・阿倍仲麻呂(cf、唐の玄宗皇帝に仕える・唐で客死)
(第10回)752年―帰路=鑑真(753年12月薩摩国漂着・失明)→唐招提寺・鑑真像(乾漆像=天平文化)
(第16回)804年―最澄・空海・橘逸勢
(第17回)838年―円仁(山門派)・・・・「入唐求法巡礼行記」
(2)新羅との関係
新羅使来朝 (8世紀21回、日本の遣新羅使15回)
国交の悪化・・・・・藤原仲麻呂の新羅征討計画(759年)、中止。国交の悪化にともない遣唐使航路変更・・・・北路→南路
(3)渤海使
渤海使来朝(727年〜922年)・・・・34回来朝(奈良朝11回来朝、日本の渤海使9回)
日本<能登・松原客院>
国交・・・・・渤海が唐・新羅と対抗するため国交樹立を求める。
交易・・・・・毛皮・人参<渤海>が日本へ、絹製品<日本>が渤海へ

 

★   頻出度の高い入試問題の一問一答
1)7世紀前半から9世紀後半に、20回任命され16回中国へ渡航し、大陸文化の日本への流入に大きな役割をはたした使節は何か。


2)この使節の船は、奈良時代に使節団が大規模化し、4隻に分乗したことから、何といわれるか。


3)この使節の航路は8世紀以降、ある国との関係悪化から、北路から・南路へ変わった。ある国とはどこか。


4)この使節の一行として717年に渡航した地方豪族出身の学者で、中国で多方面の学術を学んで帰国、日本の学問に貢献するとともに、橘諸兄政権に登用され、のちに右大臣にのぼった留学生は誰か。


5)717年の中国に渡航し、大量の経典を持ち帰っての日本の仏教学に貢献するとともに、橘諸兄政権に登用された学問僧は誰か。


 

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4)天平文化
 

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特徴・・・・貴族中心の文化←唐文化の影響(国際性・写実性)
  (1)国史・地誌の編纂
元明 
712年・・・・「古事記」―太安麻呂・稗田阿礼→元明天皇に献上
    
713年・・・・風土記―<出雲・常陸・播磨・豊後・肥前>=現存
元正 720年・・・・「日本書紀」―舎人親王・・・・・編年体(神代〜持統天皇)
              ↓
六国史(「日本書紀」〜「日本三代実録」)

797年
・・・・「続日本紀」(文武〜桓武)・・・・・・・藤原継縄、菅野真道ら
840年・・・・「日本後紀」(桓武〜淳和天皇)・・・・・藤原冬嗣、藤原緒嗣
                                        ↓
                              cf805年桓武天皇上奏(軍事と造作)
869年・・・・「続日本後紀」(仁明天皇)―藤原良房ら<cf、人臣最初太政大臣(857年)・摂政(866年)
879年・・・・「日本文徳天皇実録」(文徳天皇)・・・・藤原基経ら<cf、最初の関白(887年)>―光孝天皇 
901年・・・・「日本三代実録」(清和・陽成・光孝天皇)―藤原時平・菅原道真ら
  (2)学問・教育・文学
大学(中央=貴族の子弟)・国学(地方=豪族の子弟)
・・・・・官吏養成機関
私設・・・・・芸亭(石上宅嗣) 日本最初の公開図書館
教科・・・・・明経道・文章道・明法道・算道
文学
「懐風藻」(751年)
・・・・日本最初の漢詩集 選者=淡海三船・石上宅嗣
「万葉集」・・・・・・・・・・・山上憶良<貧窮問答歌、702年遣唐使(第7回)>・山部赤人・大伴家持=(大伴旅人の子)
☆万葉集は東歌・防人の歌などを含む(農民の素朴な感情)

  (3)東大寺中心
建築
東大寺
・・・・・法華堂(三月堂)転害門・正倉院宝庫=校倉造
法隆寺・・・・・伝法堂(伝橘三千代夫人宅)
唐招提寺・・・金堂・講堂(平城京朝集殿の遺構)

唐招提寺金堂

 

(東大寺)正倉院

                   東大寺法華堂(三月堂)

彫刻・・・塑像・乾漆像が特色
塑像  東大寺法華堂―日光・月光菩薩像、執金剛神像
     東大寺戒壇院―四天王像
     新薬師寺―――十二神将像

 

東大寺法華堂日光菩薩像

 

 

 

東大寺法華堂月光菩薩像

 

乾漆像 東大寺法華像――不空羂索観音像、四天王像
      興福寺――――十大弟子、八部衆像(阿修羅像)
      唐招提寺―――鑑真像、金堂盧舎那仏像

東大寺法華堂不空羂索観音像

(左右は日光・月光菩薩像)

 

唐招提寺鑑真像

絵画
正倉院
――鳥毛立女屏風(樹下美人図)
薬師寺――吉祥天像

正倉院鳥毛立女屏風

 

 

薬師寺吉祥天画像

 

過去現在絵因果経―絵物語の最初といわれる
工芸
正倉院御物
――白瑠璃椀、漆胡瓶、伎楽面など
書道・印刷物
「楽殻論」・・・・光明皇后
百万塔陀羅尼(770年)・・・・現存する世界最古の印刷物

歴史に関する逸話                                                    

古事記と日本書紀ー歴史書に見る大和政権・・・古事記と日本書紀はともに日本最古の歴史書といわれている。天皇の命によって編纂されているため、神話色が強い。「記紀」は歴史というより神話の世界?        
歴史書の記述の仕方には、いくつかの方法があります。事実を年代順に並べる編年体、伝記を中心に並べる紀伝体などですが、「日本書紀は」は編年体、「古事記は」は紀伝体といったように、古代に編纂された歴史書もこの方法に沿った形で書かれています。このような日本の「正史」といわれる歴史書には、日本は現在の天皇家の先祖である神々が作り、治めたことになっています。記述に従えば初代天皇の神武天皇は天照大神の曾孫です。しかし最古の歴史書である「古事記」は、天武天皇の命令によって作られたもので、当時は大和政権に天皇制がようやく根付いたころでした。その少し前、聖徳太子の時代には天皇(当時は大王と称した)は、世襲制でも単一の王統をもつものでもなく、いくつかの有力な王統から大王が選出されていたほどです。記紀の記述にしても、歴史というより、神話というべきものですし、歴代天皇のうち、最初の数代は架空の存在であるというのはもはや定説です。記紀の内容は、大和政権がようやく確立させた政権を不可侵にするために、自分たちに都合のいいように作った可能性は十分にあるでしょう。                                 
ヤマトタケルは実在した!
記紀にある神話の時代には、弥生時代から古墳時代にあたります。当時は各地で小国が分立し、いくつかが併合して大きな国となったり、逆に滅ぼされたりしていました。「記紀」の中にも、神々が使者を遣わしてあちこちの勢力を攻め滅ぼし、恭順させたことがよく登場します。ヤマトタケルは実際に熊襲や蝦夷征伐におもむき、桃太郎は城ヶ島(吉備地方?)で産出される鉄を手に入れために、鬼(吉備の王族?)を滅ぼしたといわれています。しかし、大和政権も最初は畿内周辺の豪族の集合であり、その首長を王として起てたものだったようです。朝廷に従わない勢力は「まつろわぬ民」といわれ、長い間朝廷と戦いを続けました。九州の隼人、東北の蝦夷などはもっとも強力で、中央と離れた土地で独自の政権を持っていました。征夷大将軍として有名な坂上田村麻呂は平安時代の人物ですが、2度まで蝦夷征伐に向かっています。まつろわぬ民は鎌倉時代にいたるまで、数百年にわたり朝廷に敵対したのです。                                                  
                                                                                                                                            

 

★    頻出度の高い入試問題の一問一答
1)聖武天皇の時を中心とした奈良時代の文化は何か。


2)この時期の文化は、中国のいつの時代の文化の影響を受けたか。


3)この時期の仏教の性格を表し、国家の平安を祈ることを第一とする仏教思想は何か。


4)この思想の下に建立された官立の大寺院のうち、別称を総国分寺という寺は何か。


5)仏教教義の学問的研究を主とする6つの学派を総称して何というか。


 

5平安初期の政治と文化

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 1)平安遷都

光仁天皇(藤原百川(式家)・永手(北家)擁立、在位770年〜781年)→律令制の再建(国家財政再建←大仏造立後財政悪化)
桓武天皇・・・・・律令制再建
784年(延暦3年)――長岡京遷都→785年(延暦4年)――藤原種継(長岡京造営使)暗殺→794(延暦13年)――平安京遷都(鎌倉幕府成立まで約400年国政の中心)

     平安京内裏紫宸殿(江戸時代後期)


遷都の理由
@政治と仏教の分離←(奈良=大寺院の旧仏教勢力が強い)=(鎮護国家思想→僧侶政治=道鏡)
A人心の刷新
B水陸交通の要地(交通の利便)
C長岡京は洪水に弱い(藤原種継の暗殺もあり)
 (2)平安京の景観
注目すべき建物――鴻臚館・綜藝種智院・勧学院・学館院
平安京の住民    @京職の支配  A京外の口分田経営困難→班田制の崩壊
             B支配者層に仕える、または商工業者
平安京の都市問題 @人口増加 A貧民救済 B神泉苑の御霊会→祇園御霊会


★   頻出する入試問題の一問一答

1)称徳天皇の死後、式家の藤原百川らに推され、天皇に即位した天智天皇の孫は誰か。


2)この天皇の子で、781年に即位した天皇は誰か。


3)781年に即位した天皇が、784年に移した都の名は何か。


4)長岡京遷都の翌年に暗殺された、この都の造営長官は誰か。


5)・4)の事件を契機としておこった政治不安を払拭するため、桓武天皇が794年に再び移した都の名は何か。


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  2)桓武天皇の政治
@遷都
784年(延暦3)年
――長岡京遷都←(710年平城京)
794年(延暦13)年――平安京遷都(和気清麻呂建議)
A勘解由使設置(令外の官)・・・・・解由状
班田の励行・・・・6年1班→12年1班・・・・・cf、最後の班田記録(902年)
農民の負担軽減・・・・・出挙(5割→3割)、雑徭(60日→30日)
官庁・・・・・直接田地を管理・経営=財源の確保
ex、勅旨田―勅旨により開墾(天皇に所属)→延喜の荘園整理令
    官田―宮内省や畿内諸国衙管理
   公営田―太宰府(建議 小野岑)→9世紀末まで
兵制改革・・・・・健児の制(792年)
B蝦夷征討
光仁天皇 774年 大伴駿河麻呂
       
780年 伊治呰麻呂の乱→伊治城・多賀城攻撃
桓武天皇 788年 紀古佐美
       
789年 蝦夷征討軍敗退←(阿弖流為に敗退)
       
794年 征討大使=大伴弟麻呂
       
797年 征夷大将軍=坂上田村麻呂
       
801年 蝦夷征討
       
802年 胆沢城築造・鎮守府を移す←(多賀城)
       
803年 志波城築造
       
804年 蝦夷征討計画(坂上田村麻呂=蝦夷大将軍再任)
嵯峨天皇 811年 蝦夷大将軍=文室綿麻呂

   3)嵯峨の繁栄
@薬子の乱(810)
・・・・・藤原仲成・薬子(藤原式家没落)
蔵人頭設置(令外の官)→藤原冬嗣(藤原北家)・巨勢野足
検非違使設置(令外の官・816年ごろ)
A格式の編纂――弘仁格式(820年成立)
弘仁格―藤原冬嗣ら・・・・・820(弘仁11)年成立・施行
弘仁式―藤原冬嗣ら・・・・・8208弘仁11)年成立・施行
cf、三代格式・・・・(弘仁格式―嵯峨天皇)・(貞観格式―清和天皇)・(延喜格式―醍醐天皇)

  4)天台・真言宗の成立
(1)最澄
天台宗(台密)
・・・・・最澄=伝教大師(比叡山延暦寺)→著書=「顕戒論」(820年成立)・「山家学生式」
弟子=円仁(慈覚大師)→主著「入唐求法巡礼行記」――山門派(838年入唐、17回遣唐使)
 
     円珍(智証大師)→主著「山王院在唐記」――寺門派=園城寺(853年入唐)
最澄の大乗戒壇院設立・・・・「顕戒論」→822年戒壇院設立許可(死後7日目)
cf、戒壇設立・・・・・鑑真(753年12月薩摩国着)、律宗を伝え戒壇設立
天下の三戒壇・・・・東大寺戒壇院(755年)、下野薬師寺、筑紫観世音寺
(2)空海
真言宗(東密)
・・・・空海=弘法大師(高野山金剛峯寺・教王護国寺=東寺{823年})著書=「三教指帰」「十住心論」「高野山灌頂暦名」
            潅漑事業・・・・満濃池<讃岐国>・益田池<大和国>
            三筆(唐風書道)=空海・嵯峨天皇・橘逸勢<16回遣唐使(804年)、承和の変(842年)>
            cf、三蹟(国風文化)・・・・藤原佐理・小野道風・藤原行成
  5)弘仁・貞観期の文化
(弘仁=嵯峨朝、貞観=清和朝)

性格=律令制再建の文化、唐文化の影響強い、密教的要素強い
(1)教育
教育機関
・・・・貴族=大学別曹(学寮)ex、(和気氏―弘文院)・(藤原氏―勧学院)・(橘氏―学館院)・(在原氏―奨学院)
教科・・・・文章道(紀伝道)中心・・・・cf、奈良時代=明経道中心
庶民的機関・・・・・綜藝種智院(828年空海)→空海死後廃絶
(2)漢詩集
漢文学者
・・・・嵯峨天皇・空海・小野篁・都良香・菅原道真・紀長谷雄
漢詩集・・・・奈良朝―「懐風藻」(751年、日本最初の漢詩集)
        平安朝―「凌雲集」(814年)・・・・小野岑守←嵯峨朝の勅撰
              「文華秀麗集」(818年)←嵯峨朝の勅撰
              「経国集」(827年)・・・・良岑安世―淳和天皇朝の勅撰
        空海―「性霊集」(空海の漢詩集)、「文鏡秘府論」(漢詩論)

(3)漢文学の日本化
「新撰姓氏録」(万多親王)、「十住心論」(空海)、「秘府論」(慈野貞主)
私家の漢文集―「菅家文集」「菅家後集」(菅原道真)
仏教説話集―「日本霊異記」(景戒、822年)・・・・・現存最古の説話集

書道・・・・三筆(唐風書道)=嵯峨天皇・空海・橘逸勢(cf、承和の変・842年)
(4)建築
仏教建築・・弘仁期―真言宗寺院=高野山金剛峯寺、観心寺<河内>
               天台宗寺院=比叡山延暦寺
        貞観期―室生寺金堂・五重塔<大和>

 

室生寺金堂

室生寺五重塔


神社建築  春日大社<春日造、奈良県>、加茂御祖神社本殿<流造、京都>
        宇佐八幡宮本殿<八幡造、大分県>

(5)彫刻 
仏教建築・・・・・一木造の技法・翻波式の技法
cf、寄木造=国風文化・・・・定朝完成。 わが国最古の寄木造=中宮寺半跏思惟像(飛鳥文化)
   仏像―白鳳期(金銅仏)、天平期(塑像・乾漆像)
歓心寺・・・・・如意輪観音像
神護寺・・・・・薬師如来像
室生寺・・・・・釈迦如来像(金堂)、釈迦如来像(弥勒堂)・・・・翻波式
薬師寺・・・・・僧形八幡神像・神功皇后像→神仏習合説
新薬師寺・・・・・薬師如来像
元興寺・・・・・薬師如来像
教王護国寺(東寺)
・・・・・五大明王像
法華堂・・・・・十一面観音像→翻波式
絵画
神護寺・
・・・・両界曼茶羅(両界=金剛界・胎蔵界)
教王護国寺(東寺)・・・・・両界曼茶羅


園城寺・・・・・不動明王(黄不動)


★    頻出度の高い入試問題の一問一答

1)農民の負担を軽減し、兵士の少数精鋭化をはかるため、792年に辺要以外の軍団を廃止して、郡司などの子弟からから採用された兵士は何か

2)国司交替時の不正監視のためにおかれた令外官は何か。


3)新任国司が前任国司から異常なく事務を引き継いだことを証明するため発行したものは何か。


4)801年、6年ごとに行われていた班田が改められた。何年1班となったか。


5)797年、令外官である征夷大将軍に任命され、蝦夷平定に大きな働きをしたのは誰か。


 

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