司 馬 遷
司馬遷(-145〜-86)。前漢の武帝(-141〜-87在位)の時代、太史令でした。父・司馬談が歴史書編纂を志しますが-110年死去、息子の司馬遷に後を託しました。司馬遷は父の後を継いで太史令となりますが、-99年、匈奴に破れた李陵を弁護し、自分が獄に下されてしままいます。このあたりは「山月記」でおなじみの中島敦が「李陵」という作品に書いているので、機会があればぜひ読んで下さい。その作品によれば、司馬遷はやりどころのない怒りを史書編纂にぶつけ、-96年恩赦によって獄を出ると、すべての情熱を傾けて『史記』を完成させたのです。全130巻、52万6500字の大著で、十二本紀(帝王の記録)、十表(年表)、八書(文化・経済・制度等の記録)、三十世家(王族・諸侯の歴史。孔子も含まれている)・七十列伝(個人の伝記)に分かれています。司馬遷が『史記』編纂に没頭する場面を「李陵」から引用してみましょう。
彼の仕事は実に気持ちよく進んだ。むしろ快調に行きすぎて困る位であった。というのは、初めの五帝本紀から夏印殷周秦本紀あたり迄は、彼も、材料を案配して記述の性格厳密を期する一人の技師に過ぎなかったのだが、始皇帝を経て、項羽本紀に入る頃から、その技術家の冷静さが怪しくなって来た。ともすれば、項羽が彼に、或いは彼が項羽にのり移りかねないのである。
項王則チ夜起チテ帳中ニ飲ス。美人有リ、名ハ虞。常ニ幸セラレテ従フ。駿馬アリ、名ハ騅。常ニ之ニ騎ス。是ニ於テ項王乃チ悲歌慷慨シ自ラ詩を為リテ曰ク、「力山ヲ抜キ気世ヲ蓋フ、時利アラズ騅逝カズ、騅逝カズ奈何スベキ、虞ヤ虞ヤ若ヲ奈何セン」ト。歌フコト数ケツ、美人之ニ和ス。項王泣数行下ル。左右皆泣キ、能ク仰ギ視ルモノナシ。
これでいいのか? と司馬遷は疑う。こんな熱に浮かされた様な書きっぷりでいいもんだろうか? 彼は「作ル」ことを極度に警戒した。自分の仕事は「述ベル」ことに尽きる。事実、彼は述べただけであった。しかし何と生気溌剌たる述べ方であったか? 異常な想像的視覚を有った者でなければ到底不可能な記述であった。彼は、時に「作ル」ことを恐れるの余り、すでに書いた部分を読返して見て、それあるが為に史上の人物が現実の人物の如くに躍動すると思われる字句を削る。すると確かに其の人物はハツラツたる呼吸を止める。之で、「作ル」ことになる心配はなくなるではないか。しかし、(と司馬遷が思うに)之では項羽が項羽ではなくなるではないか。項羽も始皇帝も楚の荘王もみんな同じ人間になって了う。違った人間を同じ人間として記述することが、何が「述べる」だ? 「述べる」とは、違った人間は違った人間として述べることではないか。そう考えてくると、やはり彼は削った字句を再び生かさない訳には行かない。元通りに直して、さて一読して見て、彼はやっと落ちつく。いや、彼ばかりではない。そこにかかれた史上の人物が項羽や樊カイや范増が、みんな漸く安心してそれぞれの場所に落ちつくように思われる。