無名草子・口語訳

 「さても、この『源氏』作り出でたることこそ、思へど思へど、この世一つならず、めずらかに思ほゆれ。まことに、仏に申し請ひたりけるしるしにや、とこそおぼゆれ。それよりのちの物語は、思へばいとやすかりぬべきものなり。かれを才覚にて作らむに、『源氏』にまさりたらむことを作りいだす人ありなむ。わづかに『宇津保』『竹取』『住吉』などばかりを、物語とて見けむ心地に、さばかりに作り出でけむ、凡夫のしわざともおぼえぬことなり」など言へば、また、ありつる若き声にて、「いまだ見侍らぬこそ口惜しけれ。それを語らせたまへかし。聞き侍らむ」と言へば、「さばかり多かるものを、そらにはいかが語り侍らむ」と言うへば、「さばかり多かるものを、そらにはいかが語り聞えむ。本を見てこそ言ひ聞かせたてまつらめ」と言へば、「ただ、まづ今宵おほせられよ」とゆかしげに思ひたれば、「げにかやうの宵、つれづれ慰むべきわざ」など口々言ひて。

 「それにしても、この『源氏物語』を作り上げたことこそ、どう考えなおしてみても、この世のことだけでなく比類のないこととに思われます。まことに神仏にお願い申し上げた御利益かと思われます。それから後の物語は、考えるとたいそう簡単に出来るに違いないものでっす。『源氏物語』を参考にして作るならば、『源氏物語』より優れたものを作り出す人もいることでしょう。ところが、(紫式部は)わずかに『宇津保』『竹取』『住吉』などだけを、物語として読んだ程度の心で、あれほどに作り出したというのは、普通の人間のしたこととも思えぬことです」と言うと、また先程の若い声で、「(その『源氏物語』を)まだ見ておりませんのが残念なことです。それをお話下さい。お聞きしましょう」と言うと、「あれほど多くの内容を持った物語を、どうして覚えて語ることが出来ましょう(出来るはずがありません)。本を見てお話申し上げましょう。」と言うと、「何としても、まず今宵お話になって下さい」といかにも聞きたい様子なので、「なるほどこんな宵には、所在なさを慰めるに違いないことです。」と口々に言って。

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