孟子・口語訳

 孟子がおっしゃるには、「仁は人の本心である。義は人のたどる生き方である。その道(義)を放棄して従わず、その心(仁)を自由勝手に解き放して引き締めることを知らないのは、哀しいことだなあ。人は飼っている鶏や犬が自分から放れようとすれば、それを(放れぬよう)引き締めることを知っているが、仁の心が放れようとしてもそれを(放れぬよう)引き締めることを知らない。(人の道は)他でもない、自分の仁の心を放れぬよう引き締めることだけだ。」と。

 孟子は散り放れている仁の心が放れぬよう引き締めることを言っているが、康節邵子が言うには、「心は自由に出来るようにするのだ」と。この二つの言葉は大空と水の深いところ程大いに隔たっている。考えてみると、「放心」とは心が自然に勝手に解き放たれることだ。「心放」というのは自分が束縛を解いて放つことができるのだ。「放心」というのは、飼っている鶏や豚がねぐらやさくから出てしまい、探さなければ見つからないようなものだ。「心放」の方は、狩りに使う鷹や隼が大空を飛びまわっても足につけられた紐につながれ、それがしっかりと自分の手に握られているようなものだ。多くの人の心は勝手に放れやすく、聖人賢者の心は自ら放つことができる。勝手に離散する人は勝手気ままであり、自ら放つことのできる人は心が広大でひらけている。勝手気ままな者は人間として仁の本心を失い、広大でひらけている者は仁の本心を欠けることなく保つのである。

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