清少納言について |
「清少納言」という名は、一条天皇にお仕えすることにより与えられました。「清」は姓の「清原」を表すが「少納言」については未詳です。
祖父の深養父は『古今集』時代の歌人であり、父の清原元輔も『後撰集』の撰者の一人でした。
清少納言は康保3年(推定)父が59歳の時に生まれ、家庭で和歌・漢文の教養を身につけました。16歳の時に一歳年上の橘則光と結婚し、翌年に則長をもうけました。則光との結婚生活は永祚2年(990)頃に解消したと推測されていまる。則光の人となりについては『今昔物語』巻23-15に「兵の家に非ねども心極て太くて思量賢く、身の力などぞ極て強かりける」とあります。
清少納言は正暦4年(993)、一条天皇に入内していた中宮定子の後宮に出仕しました。この時に清少納言は28歳、中宮定子は17歳だったと考えられます。清少納言が始めて出仕した時の様子は『枕草子』の「宮にはじめてまゐりたるころ」の段にみずみずしい感性で書かれています。この当時の中宮定子の後宮は30〜40名から成り、才知あふれる女房がいました。清少納言は後宮の花形となって活躍しますが、長徳2年(996)に伊周・隆家が花山院に対して弓を引くという事件によって左遷されるに及び、定子も禁中を退出して出家しました。このことによって中関白家の凋落は決定的となりました。定子が第二皇女を出産し、24歳で亡くなった時に清少納言の宮仕えも終わったと思われます。35歳でした。
清少納言の著作には『枕草子』と歌集の『清少納言集』があります。
清少納言と紫式部 |
『紫式部日記』には次のような清少納言評があります。
清少納言こそ、したり顔にいみじうはべりける人。さばかりさかしだち、真名書きちらしてはべるほども、よく見れば、まだいとたらぬこと多かり。
清少納言は実に得意顔をして偉そうにしていた人です。あれほど利口ぶって、漢字を書き散らしております程度も、よく見れば、まだひどくたりない点がたくさんあります。
紫式部は清少納言を強く意識していました。『源氏物語』や『紫式部日記』には、『枕草子』の描写を参考にした場面がいくつかあると考える研究者もいます。
中宮定子について |
藤原道隆の娘。兄の伊周・隆家と共に高い教養と機知を身につけていたことが『枕草子』から分かります。正暦元年(990)15歳の時に一条天皇の中宮となる。定子は一条天皇より4歳年上であり二人はいとこどうしでした。長徳1年(995)に父の道隆が病死してから政治の実権は道長に移ってゆきます。翌年兄の伊周・隆家が誤って花山院の輿に矢を射かけるという事件によって失脚すると、定子も出家しました。長保2年(1000)に道長の娘の彰子が入内して中宮となったために定子は皇后になった。定子は翌年に次女を出産して亡くなります。24歳でした。『枕草子』には聡明で思いやりの深い女性として描かれています。