4月 風の学校 沢木耕太郎
自由な生き方とは何か
セネガルの首都ダカールから、隣国マリの首都バマコまで、全長千六百キロに及ぶ国際列車が走っている。中田正一は、飢餓に苦しむ西アフリカの農業の実態の一端を知るため、ダカールに住む友人や教え子の反対を振り切り、その三日がかりの(1)過酷な長距離列車に乗り込んだ。客室にはクーラーもなく、開け放った窓からは熱風が吹き込み、温度は四十度近くにまで達する。暑さは当然のことと覚悟していたが、想像を絶していたのは渇きだった。丸一日乗っているうちに、友人の奥さんが用意してくれた二リットル余りの番茶も、自分の大型水筒に詰めておいた水も、どちらもきれいになくなっていた。そして、そこから渇きとの闘いが始まったのだ。停車駅に水売りが来るときはまだよかった。とても清潔とは思えない水だったが、バケツからカップですくってゴクゴクと飲む。しかし、その水売りすら来ない小さな駅ではどうしようもなかった。中田はそれまで、異国での旅の心得として、生水を絶対に飲まないことを重要な一条としていた。だが、この激しい渇きの前には、そうした心得など無力だった。中田は、停車している列車から降りると、鉄道と平行して流れているセネガル川の水を、手ですくって飲むようになった……。そうした旅を続けているうちに、中田の頭の中にしだいに明瞭になってくるものがあった。「水だ!」もちろん、この西アフリカにおいて水がどれほど大事なものか、それまでも十分に分かっているつもりだった。しかし、渇きに苦しむ列車の中で、初めて(2)腹の底から納得できるようになったのだ。やがて、中田の頭の中にゆっくりと井戸のイメージが広がってきた。「井戸だ、それも手掘りの井戸だ!」
そして中田は思ったのだと言う。これからの人生を手掘りの井戸の技術の開発のためにささげよう、と。(3)そのとき、中田正一は八十歳だった。中田正一。明治三十九年、兵庫県淡路島生まれ。九州大学農学部出身。農林省に入省、農業改良普及事業に従事。定年退職後、一時、海外協力事業団国際農業研修センター館長を務める。と、年譜的にはそのようになるのだが、(4)中田正一の本領はこうした年譜の中にはない。だいいち、農林省の技官としては、「ついに予算を分捕る技術に習熟することなく、課長にすらなれなかった落ちこぼれ」である。重要なのは、ユネスコから派遣され、定年退職直前の一年半を農業教育の専門家としてアフガニスタンで過ごしたことであり、更には、農業協力プロジェクト‐チームのリーダーとして、六十九歳から七十六歳にかけての七年間をバングラデシュで暮らしたことである。そこでの経験が、「風の学校」という不思議な教育機関を生む契機になったからだ。中田が主宰する「風の学校」には本校がない。生徒が存在するところ、そこがすべて「風の学校」の分校である。生徒の資格は、海外での農業協力や奉仕活動を志望する者ならだれにでもある。生徒は、中田が各地に用意した住居と田畑で、自活しながら農業の経験を積んでいく。それを中田は「自活実習」と呼び、「風の学校」の根幹を成す教育と考える。「風の学校」において、「自活実習」と並ぶもう一つの重要な柱は、(5)「適正技術」の習得ということにある。バングラデシュでの長い経験によって、技術協力というものは相手の国の実情に見合ったものでなければ決して根付くことがない、ということを骨身に染みて感じるようになったからだ。例えば、援助によって立派な機械が贈られる。しかし、一、二年もすると、打ち捨てられ、雨ざらしにされたままになってしまう。それも当然なのだ。故障をしても修理をする部品がないのだから。そして、その部品を買う金すらないのだから。間違っているのは、その程度のことすら考えないで「援助」をするほうなのだ。そういった土地に必要なのは、金ではなく人であり、物であるより技術である。しかも、その技術というものも、その土地にある物を利用し、その土地の人が習得できるものでなくてはならない。「風の学校」が目的とするのは、「自活実習」によって経験を積んだ若者たちが、そうした「適正技術」を習得して海外に飛び立っていくことなのだ。四年前、西アフリカから帰ってきた中田は、その「風の学校」の格好のテーマとして、「手掘りの井戸掘り技術」の開発に着手した。都合のいいことに、中田の住む千葉には、竹を利用した上総掘りという伝統的な井戸掘り技術があった。だが、アフリカには竹がない。とすれば、竹を使わない上総掘りを考えればいいのではないだろうか。そして一年、どこにでも転がっているようなスクラップの部品を利用した「竹を使わない上総掘りの第一号方式」が完成した。原理的には、重い鉄のパイプの先端に刃を付け、それを上下させて穴を掘っていく、という極めて簡単なものだった。やがてそこから、自転車の古チューブやビー玉を利用することで、たった一人でも掘れる「第二号方式」が生まれ、更に、それらの技術を持って海外に散っていった生徒たちの手によって、「第三号方式」「第四号方式」が開発されるまでになった。中田と「風の学校」の生徒たちにそうしたことが可能だったのは、たぶん彼らが井戸掘りの素人だったからに違いない。なぜなら、まさに中田自身が言うように、「玄人はまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない。」からだ。外房線の茂原からバスで四十分ほどの所に大多喜という停留所がある。そこでバスを降り、あぜのような道を十分ほど歩くと、庭に風車の回っている家が見えてくる。そこが中田の住まいである。風車は「竹を使わない上総掘り」によって掘られた井戸から水をくみ上げる動力として使われているのだ。
ある日、その風車のある家を訪れたジャーナリストが、いきなり尋ねてきた。
「どうしてそんなことをしているんです?」
そうストレートに尋ねられ、中田は答えに詰まった。今までそんなことを問われたこともなく、だから考えたこともなかったからだ。しかし、中田はしばらく考えてから、少しずつしゃべり始めた。―若いころ、「第二里の人」という本を読んだことがある。著者の名前も内容もあいまいになってしまったが、今でも一つだけ鮮やかに覚えているのは、その中に「人もしなんじに一里行くことを強いなば共に二里行け。」という「マタイ伝」の一節が引用されていたことだ。それを私はこう理解した。第一里とは(6)義務的な仕事であり、第二里とは自由意志による活動であろう、と。自分の場合、その第二里の活動が、たまたま国際協力というものだったにすぎない。
先の大戦で、私は「南支」に四年半ほどいた。工兵の小隊長として、ただひたすら道を作り、橋を架けてきた。軍が進む際は先頭に立って工作し、退却する際は後尾に付いて処理をしてくる。「陣中日誌」に記しただけでも四十五回もの戦闘場面に遭遇した。「今度はもう駄目だろう。」というあきらめが、「今度もまた大丈夫だった。」という安堵に変わる。そういったことが何度も続いた。不思議と私は死ななかった。だからというわけではないが、そうした(7)野戦状態で生きることが決して苦痛ではなかった。楽しくはなかったが、ある意味での充足感があった。しかし、敗戦後、そのことに深く悩まされることになった。中国に対して個人的な悪行はしてこなかったつもりだが、兵士としての責任がないわけではない。現在の私の行動に、その贖罪の気持ちがないと言えばうそになる。実際、中国には今でも足を踏み入れられないと思っているし、訪れることもないだろうと思っている。だが、もちろん、それだけではない。
私も十代から二十代にかけて、「巌頭の感」を残して華厳の滝に飛び込んだ藤村操と同じく、この生にどのような意味があるのか悩み抜いた。死ななかったのは、私が藤村操より頭が悪く、体や手を動かすのが好きなたちだったからに違いない。だが、そうした煩悶の中から、宗教的な幾つかの信条のようなものが形作られることになった。私の第二里の活動を支えている「人を助けることは自分を助けることだ。」というのもその一つである。
こんなことを言うと、「何をばかな。」と笑われるかもしれないが、かつて外国に対して日本のしたこと、今日本がしていること、それらはすべて自分に責任があるような気がする。しかし、口先でいくらそんなことを言っていても仕方がない。だから、せめて自分が責任を取れるところで取ろうと思うのだ。それが農業改良普及事業への協力であり、「風の学校」を作ることであり、手掘りの井戸掘り技術の開発であったのだ。
だからといって、むやみに使命感に駆られ、やるべきことを血眼になって探し求めてきたというわけではない。今目の前にある運命をすばらしいものと受け止め、その運命を十分に生き切ってさえすれば、次にすべきことは必ず向こうからやって来た。時に、若い人が私に相談を持ち掛けてくることがある。ボランティア活動に従事するのはいいが、海外から帰ったときに就職の口があるだろうか、と。そんなことは分からない、と私は答える。食べるために働くのではない。働いているから食べるのだ。それと同じように、将来のために海外でボランティア活動をするのではない。それ自体が豊かなことだからしているにすぎない。
現在は、持ち家を息子に譲り、この大多喜で借家住まいをしている。それはいつでも海外に出ていけるようにするためでもある。私にはやはり野戦状態が向いているようなのだ……。
この四月から五月にかけて、中田はアフガニスタンを訪れた。和平協定が結ばれ、ソ連軍は引き揚げたものの、依然として戦火は収まっていない。しかし、いずれ内戦は終結するに違いない。そのとき、どのように「心の故郷」たるアフガニスタン復興の手助けをしたらいいか、今のうちから見極めておきたいと思ったのだ。周囲の人々は、八十四歳の中田には危険過ぎると引き止めたが、当人は少しも恐怖を感じていなかった。確かに、カブールではロケット弾が飛び交い、ヘラートではホテル横の戦車から間断なく砲声がとどろいていた。だが、あるときなど、郊外の学校を案内してくれた現地の人が、地雷を恐れておっかなびっくり歩いているのを見て、思わずこう言ってしまったほどだった。
「僕に付いていらっしゃい。」
セネガルの首都ダカールから、隣国マリの首都バマコまで、全長千六百キロに及ぶ国際列車が走っている。中田正一は、飢餓に苦しむ西アフリカの農業の実態の一端を知るため、ダカールに住む友人や教え子の反対を振り切り、その三日がかりの過酷な長距離列車に乗り込んだ。
客室にはクーラーもなく、開け放った窓からは熱風が吹き込み、温度は四十度近くにまで達する。暑さは当然のことと覚悟していたが、想像を絶していたのは渇きだった。丸一日乗っているうちに、友人の奥さんが用意してくれた二リットル余りの番茶も、自分の大型水筒に詰めておいた水も、どちらもきれいになくなっていた。そして、そこから渇きとの闘いが始まったのだ。
停車駅に水売りが来るときはまだよかった。とても清潔とは思えない水だったが、バケツからカップですくってゴクゴクと飲む。しかし、その水売りすら来ない小さな駅ではどうしようもなかった。中田はそれまで、異国での旅の心得として、生水を絶対に飲まないことを重要な一条としていた。だが、この激しい渇きの前には、そうした心得など無力だった。中田は、停車している列車から降りると、鉄道と平行して流れているセネガル川の水を、手ですくって飲むようになった……。
そうした旅を続けているうちに、中田の頭の中にしだいに明瞭になってくるものがあった。
「水だ!」
もちろん、この西アフリカにおいて水がどれほど大事なものか、それまでも十分に分かっているつもりだった。しかし、渇きに苦しむ列車の中で、初めて腹の底から納得できるようになったのだ。やがて、中田の頭の中にゆっくりと井戸のイメージが広がってきた。
「井戸だ、それも手掘りの井戸だ!」
そして中田は思ったのだと言う。これからの人生を手掘りの井戸の技術の開発のためにささげよう、と。そのとき、中田正一は八十歳だった。
中田正一。明治三十九年、兵庫県淡路島生まれ。九州大学農学部出身。農林省に入省、農業改良普及事業に従事。定年退職後、一時、海外協力事団国際農業研修センター館長を務める。
と、年譜的にはそのようになるのだが、中田正一の本領はこうした年譜の中にはない。だいいち、農林省の技官としては、「ついに予算を分捕る技術に習熟することなく、課長にすらなれなかった落ちこぼれ」である。重要なのは、ユネスコから派遣され、定年退職直前の一年半を農業教育の専門家としてアフガニスタンで過ごしたことであり、更には、農業協力プロジェクト‐チームのリーダーとして、六十九歳から七十六歳にかけての七年間をバングラデシュで暮らしたことである。そこでの経験が、「風の学校」という不思議な教育機関を生む契機になったからだ。
中田が主宰する「風の学校」には本校がない。生徒が存在するところ、そこがすべて「風の学校」の分校である。生徒の資格は、海外での農業協力や奉仕活動を志望する者ならだれにでもある。生徒は、中田が各地に用意した住居と田畑で、自活しながら農業の経験を積んでいく。それを中田は「自活実習」と呼び、「風の学校」の根幹を成す教育と考える。
「風の学校」において、「自活実習」と並ぶもう一つの重要な柱は、「適正技術」の習得ということにある。バングラデシュでの長い経験によって、技術協力というものは相手の国の実情に見合ったものでなければ決して根付くことがない、ということを骨身に染みて感じるようになったからだ。
例えば、援助によって立派な機械が贈られる。しかし、一、二年もすると、打ち捨てられ、雨ざらしにされたままになってしまう。それも当然なのだ。故障をしても修理をする部品がないのだから。そして、その部品を買う金すらないのだから。間違っているのは、その程度のことすら考えないで「援助」をするほうなのだ。そういった土地に必要なのは、金ではなく人であり、物であるより技術である。しかも、その技術というものも、その土地にある物を利用し、その土地の人が習得できるものでなくてはならない。
「風の学校」が目的とするのは、「自活実習」によって経験を積んだ若者たちが、そうした「適正技術」を習得して海外に飛び立っていくことなのだ。
四年前、西アフリカから帰ってきた中田は、その「風の学校」の格好のテーマとして、「手掘りの井戸掘り技術」の開発に着手した。都合のいいことに、中田の住む千葉には、竹を利用した上総掘りという伝統的な井戸掘り技術があった。だが、アフリカには竹がない。とすれば、竹を使わない上総掘りを考えればいいのではないだろうか。
そして一年、どこにでも転がっているようなスクラップの部品を利用した「竹を使わない上総掘りの第一号方式」が完成した。原理的には、重い鉄のパイプの先端に刃を付け、それを上下させて穴を掘っていく、という極めて簡単なものだった。やがてそこから、自転車の古チューブやビー玉を利用することで、たった一人でも掘れる「第二号方式」が生まれ、更に、それらの技術を持って海外に散っていった生徒たちの手によって、「第三号方式」「第四号方式」が開発されるまでになった。
中田と「風の学校」の生徒たちにそうしたことが可能だったのは、たぶん彼らが井戸掘りの素人だったからに違いない。なぜなら、まさに中田自身が言うように、「玄人はまず不可能な点を数え上げるが、素人は可能なことしか知ろうとしない。」からだ。
外房線の茂原からバスで四十分ほどの所に大多喜という停留所がある。そこでバスを降り、あぜのような道を十分ほど歩くと、庭に風車の回っている家が見えてくる。そこが中田の住まいである。風車は「竹を使わない上総掘り」によって掘られた井戸から水をくみ上げる動力として使われているのだ。
ある日、その風車のある家を訪れたジャーナリストが、いきなり尋ねてきた。「どうしてそんなことをしているんです?」そうストレートに尋ねられ、中田は答えに詰まった。今までそんなことを問われたこともなく、だから考えたこともなかったからだ。しかし、中田はしばらく考えてから、少しずつしゃべり始めた。―若いころ、「第二里の人」という本を読んだことがある。著者の名前も内容もあいまいになってしまったが、今でも一つだけ鮮やかに覚えているのは、その中に「人もしなんじに一里行くことを強いなば共に二里行け。」という「マタイ伝」の一節が引用されていたことだ。それを私はこう理解した。第一里とは義務的な仕事であり、第二里とは自由意志による活動であろう、と。自分の場合、その第二里の活動が、たまたま国際協力というものだったにすぎない。
先の大戦で、私は「南支」に四年半ほどいた。工兵の小隊長として、ただひたすら道を作り、橋を架けてきた。軍が進む際は先頭に立って工作し、退却する際は後尾に付いて処理をしてくる。「陣中日誌」に記しただけでも四十五回もの戦闘場面に遭遇した。「今度はもう駄目だろう。」というあきらめが、「今度もまた大丈夫だった。」という安堵に変わる。そういったことが何度も続いた。不思議と私は死ななかった。だからというわけではないが、そうした野戦状態で生きることが決して苦痛ではなかった。楽しくはなかったが、ある意味での充足感があった。しかし、敗戦後、そのことに深く悩まされることになった。中国に対して個人的な悪行はしてこなかったつもりだが、兵士としての責任がないわけではない。現在の私の行動に、その贖罪の気持ちがないと言えばうそになる。実際、中国には今でも足を踏み入れられないと思っているし、訪れることもないだろうと思っている。だが、もちろん、それだけではない。
私も十代から二十代にかけて、「巌頭の感」を残して華厳の滝に飛び込んだ藤村操と同じく、この生にどのような意味があるのか悩み抜いた。死ななかったのは、私が藤村操より頭が悪く、体や手を動かすのが好きなたちだったからに違いない。だが、そうした煩悶の中から、宗教的な幾つかの信条のようなものが形作られることになった。私の第二里の活動を支えている「人を助けることは自分を助けることだ。」というのもその一つである。こんなことを言うと、「何をばかな。」と笑われるかもしれないが、かつて外国に対して日本のしたこと、今日本がしていること、それらはすべて自分に責任があるような気がする。しかし、口先でいくらそんなことを言っていても仕方がない。だから、せめて自分が責任を取れるところで取ろうと思うのだ。それが農業改良普及事業への協力であり、「風の学校」を作ることであり、手掘りの井戸掘り技術の開発であったのだ.だからといって、むやみに使命感に駆られ、やるべきことを血眼になって探し求めてきたというわけではない。今目の前にある運命をすばらしいものと受け止め、その運命を十分に生き切ってさえすれば、次にすべきことは必ず向こうからやって来た。時に、若い人が私に相談を持ち掛けてくることがある。ボランティア活動に従事するのはいいが、海外から帰ったときに就職の口があるだろうか、と。そんなことは分からない、と私は答える。食べるために働くのではない。働いているから食べるのだ。それと同じように、将来のために海外でボランティア活動をするのではない。それ自体が豊かなことだからしているにすぎない。現在は、持ち家を息子に譲り、この大多喜で借家住まいをしている。それはいつでも海外に出ていけるようにするためでもある。私にはやはり野戦状態が向いているようなのだ……。この四月から五月にかけて、中田はアフガニスタンを訪れた。和平協定が結ばれ、ソ連軍は引き揚げたものの、依然として戦火は収まっていない。しかし、いずれ内戦は終結するに違いない。そのとき、どのように「心の故郷」たるアフガニスタン復興の手助けをしたらいいか、今のうちから見極めておきたいと思ったのだ。周囲の人々は、八十四歳の中田には危険過ぎると引き止めたが、当人は少しも恐怖を感じていなかった。確かに、カブールではロケット弾が飛び交い、ヘラートではホテル横の戦車から間断なく砲声がとどろいていた。だが、あるときなど、郊外の学校を案内してくれた現地の人が、地雷を恐れておっかなびっくり歩いているのを見て、思わずこう言ってしまったほどだった。
「僕に付いていらっしゃい。」
それは中田に、地雷を踏んだり砲弾に当たったりすることはまずないだろうという奇妙な自信があったからだが、同時に、当たれば当たったで別に構わないという思い切りがあったからでもある。明治に生まれ、様々にぎやかな経験をし、ほとんど悔いのない人生を送ってきた。たとえその場で死んでも悲しまなければならないことはほとんどなかった。「おまけに」と、中田は目の前のジャーナリストに向かっていたずらっぽそうに笑いながら言った。「そうした突然の死は、畳の上の死より、よほど具合がよさそうだったものですからね。」それは中田に、地雷を踏んだり砲弾に当たったりすることはまずないだろうという奇妙な自信があったからだが、同時に、当たれば当たったで別に構わないという思い切りがあったからでもある。明治に生まれ、様々にぎやかな経験をし、ほとんど悔いのない人生を送ってきた。たとえその場で死んでも悲しまなければならないことはほとんどなかった。「おまけに」と、中田は目の前のジャーナリストに向かっていたずらっぽそうに笑いながら言った。「そうした突然の死は、畳の上の死より、よほど具合がよさそうだったものですからね。」
演 習
問一 「腹の底から納得できるようになった」とは、どういうことですか。
心の底から水に対する感動を味わうことができたということ。
理屈ではなく実感として、水の大切さを認識するようになったこと。
上辺だけではなく、本質的な理解ができるようになったということ。
理屈の上で非常によく認識できるようになったということ。
謙虚に自らの経験を振り返って、自分が間違っていたと感じたこと。
問二 「そのとき中田正一は八十歳であった。」とありますが、中田正一はどういう人物だったのでしょう。
旅行者として活動するには、限界にきていた人物。
困難に直面しても、挫けないたくましい人物
高齢にしてなおかつ精力的に行動する人物
老年になって、心身ともに衰えた人物
問三 中田正一の本領はこうした年譜の中にはないとはどういうことでしょう。
中田正一の本領は、アジアアフリカの子供たちの救援活動において、はじめてしめされたのであるとい うこと。
中田正一は、官吏時代に大きな失敗をして、出世の機会を奪われたが、その後、風の学校によって名 声を得たということ。
過去の中田正一の業績は、経歴によっては窺い知ることができないのであって、詳しく過去の生活を調 べるべきだということ。
中田正一の業績を知るには、過去から現在に至る、彼の仕事の内容を丹念に調査しないといけないと いうこと。
中田正一が本領を発揮したのは履歴書に書かれているような世間的な経歴の活動においてではなか ったということ。
問四 適正技術とはどういうものでしょう。
知識に適した技術を正確に駆使するということ。
極端に先端的ではなく、古い技術を尊重したものであること。
現地の人々の深い理解に基づいた技術であるということ。
国際協力で相手の国の事情に適う有用なものであること。
優れた知性によって扱われる、適切な技術jのこと。
問五 義務的な仕事とはどういうものでしょう。
法律によって定められた、行わねばならない仕事のこと。
一定の期間において、どうしてもやり遂げねばならない仕事のこと。
この世で生きてゆく上で避けられないものとして課される仕事のこと。
職務上の決まりに基づいて行われる仕事のこと。
強制的にやらされる、砂を噛むような味気ない仕事のこと。
問六 野戦状態とは、どういうものでしょう。
戦争と関わり続ける生活のこと
確固たる目標を持たない生活のこと
地域の人々とともに暮らすこと
国際協力の現場で実際の活動に従事していること。
国際紛争の解決のために努力すること
問七 「奇妙な自信」は、どこから生まれてくるのでしょうか。
これまでの半生において、自分の残した実績から
いかなる困難にも屈せずに生きてきたから
後悔するような生き方をしてこなかったから
何度も続いた野戦状態で、不思議と死ななかったから
国際協力において高い評価を得たから
問八 「そうした突然の死は、畳の上の死より、よほど具合がよさそうだった」というのは、なぜですか。
家族との関係がうまく言っていないので、家より戦場で死ぬ方がましだから
国際協力の場で死にたいというのは、自分のかねてからの願いであったから
眼前の運命を考えると、自宅で安らかに死ぬのは困難であるにちがいないので。
野戦状態での死の方が自分の生き方に合っているから。
国際紛争の解決に力を尽くすことで、生涯を終えるのは愚かなことであるから。