紀 貫 之

turayuki.gif (32481 バイト) 平安の歌人で、貞観14(934)年には和歌の作品が公表されています。この時代を代表する文学者であることは間違いなく、詔勅の草案を書く等の役割を勤めていました。(右の画像は日本でただひとりの歌仙絵師崇石(しゅうせき)氏の作品です。)

 貫之は『古今和歌集』の編纂に当たり、仮名序を書いています。当時は公式の文書等には漢文を使うのが当然だったのです。これを和歌を表現するのに仮名の方が良いということで、本文では『万葉集』に倣った万葉仮名(全て漢字を用いた)で書いたものと仮名で書いたものを併記しています。序も、仮名序と、漢文で書かれた「真名序」があります。内容はほとんど同じで、和歌の歴史、評釈、分類、六歌仙、技巧などについて述べています。
 仮名序の日付は延喜5(905)年4月18日となっていますが、これが命令を承って書いたものか、完成してから書かれたものか、説が分かれています。(『日本紀略』では真名序にある15日を完成の日としています。『万葉集』『古今和歌集』については、4月のシラバスから『古今和歌集』のページをご覧ください。)

 『土佐日記』はこの30年ほど後の成立になります。仮名序に比べて自由な立場で書かれたこともあり、軽妙な文章になっています。もちろん『古今集』で仮名が認められたからこそ成立した作品といえるのです。
  945年には亡くなっています。生まれた年は不明ですが、70歳を超えていたといわれています。(貫之の墓参りをするなら……クリック

 

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haka1.gif (334640 バイト)貫之の墓:何と!愛媛県にあります。貫之の末裔(まつえい)といわれる親安(ともやす)が、愛媛・城川の三滝城主となり、この地に天正年間に墓を建立したと伝えられています。この親安は天正11年に討死にし、昭和57年に町の史跡に指定されました。(写真提供「三滝を見た気」)

 

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